ベトナム
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ベトナム

2002年3月12日〜3月22日

今回の旅行

ベトナムは戦争が終わってから、今年(2002年)で27年になる。ドイモイ政策以降、経済は成長しているがまだ物価は日本からみると相当安い。通貨の単位はドンだが1ドンは0.0087円という値だ。コインはなくすべて紙幣だ。たぶんベトナム戦争で金属資源などが貴重であったためではないかと想像した。現地では換算を容易にするため現地価格から0を2桁とって比較していた。

自宅を朝一番に立ち、名古屋で新幹線にのり、新大阪で特急はるかにのりかえ関西国際空港に着く。11時に飛行機にのり時差2時間あるが15時すぎにはホーチミン市のタンソンニャット国際空港についてしまう。バリ島と比べてもたいへん近い国であると実感した。

狂犬病と破傷風の予防接種2回の交通費込みで約2万円、関空までの往復料金約2万円の計4万円よりベトナムで使った11日間の現金の方が少ないというほどベトナム旅行は安かった。(航空券とホーチミン市のホテル代は別)

直行便がある旧南ベトナムのサイゴン、現在の名前でホーチミン市を基点に動いた。故ホーチミン主席と区別するため現地ではホーチミンシティと会話の中で言うのだが長すぎていいにくい。ついサイゴンという単語がでてしまう。ホーチミンシティで宿泊したベンタイン市場南部のファングーラオ通り、デダム通りには安宿や食堂が集中していて旅行社もいろいろあり、ワンデーツアーや航空券の手配も全部すんでしまうというまことに便利で活気にみちたエリアだ。ここでクチトンネルへ行くツアーやメコン川クルーズさらに北東の海岸リゾート地ニャチャンへの航空券を購入して旅した。

子どものころ、ベトナム戦争が続き、頭に重くのしかかっていた。そのベトナムの地に行く日が来ることがあるとは思ったことがなかった。しかし一般人であるぼくでも来れるような時代が来た。そして現実に来た。いわゆる戦後生まれの人でも27歳など成人もかなりの人口比を占めている。そういうことだけでも感動してしまう。

そうとう以前には海外旅行にはダイビング機材をいれる都合もあり、スーツケースを使った。しかしその後リュックサックにもでき、肩帯もついているカバンにした。しかし肩にひっさげ長時間歩くのはしんどいので今回はそのカバンをキャスターにのっけて来た。ひっぱってくるだけなのでかなり楽になった。

料理

最近ベトナムが旅行先として注目されている理由のひとつにベトナム料理がある。世界中で甲殻類の料理は高額だが物価水準の違いで日本人には安く食べれる。花がにとかいろいろなかにの種類があり、何種類も食べた。非常によかった。また特に調味料としてのヌックマムは万能でこれにつけるとほんとうにおいしくなる。500〜600円出すと相当ぜいたくな食事を食べれる。食堂にいくと1皿、山ほどある野菜とあげものなどを出される。ライスペーパーと呼ばれる直径20cmの米で織った皮を4分の1にしたものを出され自分で巻いて春巻にして食べるものや、かにやはまぐりもうまかった。メニューを見てわからないときはガイドブックの写真を指差し、これだと示せばあるとかできないとか対応してくれる。ウナギ料理がメニューにのっていたのでほんとうのウナギかあるいはアナゴのことなのか何度も念をおしたがウナギだというので、あるとき食べたが骨のあるまま輪切りにして煮込んであり、ダメだった。

どこの国に行ってもその国の食べ物を食べるのは興味もあり、楽しいが1日に3回かせいぜい4回が食事回数なので食べることのできる料理の種類はたかがしれている。海外旅行のときはダイエットは中止して食べるのだが、普段あまり食べないのですぐにおなかいっぱいになってしまう。

ビール

ハイネケンもあるがベトナムで作っているのではないだろうか。サイゴンビールなど現地ビールと値段にほとんどちがいがないからだ。サンミゲルという銘柄もあるがこれはフィリピン原産ではないか。地元のビールを飲んでもあまり酔わないのでラベルをみるとアルコール度3%となっている。日本では5.5%のものもあるのでだいたい半分くらいだ。

物価

1ドルというお金がこんなに価値があるとは思わなかった。初日に行商のおばさんから椰子の実ジュースを買ったが1ドルと言われて思わず出してしまったが3倍以上の金額を払ってしまったことになる。8円ぐらいでさとうきびジュースが買える。そこから考えると椰子の実ジュースには10倍払ったのかもしれない。歴史博物館で見た水上人形劇はダイジェスト版だが1ドルで見れた。5階コンクリート建てのバス・トイレ付きホテルが1泊7ドルという具合、最近めざましくベトナムブームになったためニャチャンでは2000年とか2001年オープンとかいう新しいホテルが多く設備も悪くない。

また以前はアメリカと戦ったのだが、外国通貨としてUSドルがやたらと通用するし、それで要求される場合もある。皮肉なものだ。ただぼくが行ったところは旧南ベトナム地域だからかもしれない。ここはアメリカ軍が戦争当時駐留しUSドルも相当落ちただろう。

戦争証跡博物館

ベトナム戦争のことを大きく6つぐらいのテーマに分けて展示してある。その他にも日本人の写真家の展示コーナーや屋外には戦車や飛行機、大砲の展示もある。建物は古いが非常に統合的な展示ですごいというかすばらしい記録というか、2日間みたが十分ではない。戦争の発端からの記述から始まり当時の南ベトナム大統領官邸(現在の統一会堂)に戦車が突入して終わった歴史やアメリカや南ベトナム軍がどういうことをしたか。使用された銃や各種兵器の展示とどのように使用したか。ベトナム戦争を取材した各国の写真家の写真。トラの檻と呼ばれた監獄、拷問施設の再現、戦争後転覆を企てた反逆者のグループごとの記録。世界各国がどのようにベトナム戦争を報道し、戦争反対の運動をしたかの展示などなど。主にベトナム語と中国語、英語で説明が書かれていた。

アメリカが爆撃したアメリカ側の記録映画でもナパーム弾により次々とジャングルが燃え上がっていくところをとらえている。まったくの焼け野原となった写真を今あらためて見るとこの戦争の悲惨なことが心にしみる。

日本でも今、ごみ焼却で発生することで問題となっているダイオキシンもベトナムでは枯葉剤として1962年から1971年でアメリカが7000万リットルも巻き散らかした。その影響による障害者の惨状は史上前例がないように思う。町でもあきらかに戦後生まれの世代でも指のほとんどない人をみかける。特定の条件の土壌にたまるということらしいので土壌中の濃度はおそらく日本の何十倍もあるのではないだろうか。

美術館

昔の陶磁器の展示などもあったが、ベトナム戦争当時、描かれた絵が静かに当時のくらしや農作業を伝えてくれる。銃を背負っての農作業、戦闘の合間の読書している人、かたわらには銃がある。戦争と隣り合わせ、戦争の中で生きたことがひしひしと無言だが強い力で伝わってくる。クチ・トンネルで有料射撃場があったが長い間、銃がかたわらにあった生活をした人たちからみればなんら違和感のないことなのかもしれない。

ホーチミン作戦博物館

ホーチミン作戦とは1975年のサイゴン陥落、最終勝利を決めた作戦のことだが、館内外に使用された機材、カメラ、軍装などが展示されている。日本製のラジオや無線機などもあった。キューバから日本製のブルドーザーが贈られ展示してあった。キューバでの貴重な、なけなしのブルドーザーをベトナムの勝利のために贈ったのではないかと思った。

交通

他のいわゆるマレー系の東南アジア諸国とはことなり、日焼けを気にする女性がほとんどで、自転車やバイクが主要な交通手段であるが半そでの肩まで伸びる長手袋をして目の真下まである大きなマスクをして走っている。そのまま銀行強盗に行っても面がわれないような、いでたちだ。大きなマスクは排気ガス対策もあるだろうがこの暑い国ではさぞ暑いことだろうと思う。

洪水のようにバイク、自転車、自動車が走ってくるので少なくなるのを待っていたら永久に道路は横断できない。走ってくるバイクの人の目をにらみながら落ち着いてゆっくり横断する。まさに命がけの横断だ。近い将来にはそうなるであろうが、今、走っているバイクの1割が経済の成長で自動車にかわったら、もうすざまじい渋滞で交通は麻痺するだろう。

戦争の傷跡

ニャチャンの近郊へボートトリップに出かけた。山があるが木のはえていないところがある。またはまったく2次林であるところがある。これらは空爆によるものだという。地元の人は「アメリカ軍の爆撃しなかったところはない。」と言った。

   

またニャチャン川の河口には手前からアメリカ軍の空爆で壊れた橋、架け替えられた橋、そして遠くに線のように見えるが新しい4車線の巨大な建設中の橋があり、ベトナムの過去、現在、近い未来を象徴しているようだった。

クチトンネル

ホーチミン市からカンボジアの方に行くとクチの町がある。ここまでの道はカンボジアへの幹線道路で重要なのだろう。現在の2車線の道路の3倍ぐらいの幅に拡張する工事が行われていた。戦争中トンネルを縦横無尽に堀り司令部や病院、住居、とした。ほとんどは朽ち果ててしまったり、忘れられたそうだが、ここには保存されており、見学できる。戦時中の食べ物も食べさせてもらった。ところが場内に射撃場があり、1ドルだすと各種銃で的を撃たせてくれる。戦争を忘れないためか、外貨獲得の方法かはわからないが日本でなら仮に銃が撃てる許可があったとしてもこういうことは猛烈な反対がでるだろう。

     

クチトンネルに入っていくところ             メコンにそそぐ支流をボートで入っていく   

 

ニャチャンの郊外ポンチョン岬にある岩

メコン河クルーズ

メコン河は巨大だ。河口付近でいくつもの支流にわかれるがそれも巨大だ。ミトーという港町に行った。ダンプカーを何台ものせれるフェリーが7隻で運行している。ここから40キロぐらい上流にはオーストラリアの援助で橋がかかっているが、これだけ交通量があるとここにも必要だろう。将来ここにもきっと橋がかけられ、ベトナムはさらに発展するだろう。メコン河にはホテイアオイがよく流れてくる。それが岸辺にひっかかって新たな群落を作っている。そしてその群落が大きくなると端がまた下流に流されていく。

ドナウ川にドナウを愛する「美しく青きドナウ」という名曲があるようにメコンを愛する名曲ができるのかもしれない、またはすでにあるのかもしれない。支流にはいり村を見学した。キャラメル工場も見た。農家はほんとうに自給自足なのか、養蜂やあひる、豚を飼っている。

ニャチャン

北東の海岸リゾート地ニャチャンへ飛行機で行った。ニャチャンの飛行場はどうも軍隊も使用しているようだ。ホーチミン市のシンカフェという旅行代理店で航空券を買ってから帰りの券を手配しなかったことに気が付いて間の抜けたことをした。しかし何日いるかはっきりさせていなかったのでまあいいかと考え直した。ここで一番おおきなホテルはアナ・マンダラ・リゾートというところだが、滑走路の先端にとなりあわせであり、危険かつうるさくとても金を出して泊まるところではない。わざわざこの場所につくるとは経営者の頭は完全にいかれている。ぼくは7ドルでホットシャワー・トイレ・エアコン・テレビ付きという格安の新しいホテルに泊まった。1泊1000円しないのだから最高だ。ガイドブックで見てもここ2、3年にオープンしたホテルが何軒ものっている。それにしてもベトナム語はなぜこうもニャチャン、トンニャット、ニャンザン、タンソンニャットと猫の鳴き声のようなことばが多いのだろう。ここの海岸で寝そべってゆっくりすごそうとおもったが2日間ねそべってがまんできなくなり、ボートトリップやサイクリングにでかけた。朝7時前に海岸にいくと地元の人が大勢、泳いだり走ったりしている。7時少しすぎるとみんな仕事に行ったのだろう。いなくなる。10時ごろになると観光客が逆に来てねそべっている。観光開発も進んでおり、将来、もっと有名なところになるのではないか。ダム市場にいった。何百軒という個人店が軒を並べ活気のあることこのうえない。

パスポート

海外旅行では命の次に大切なものがパスポートだといわれる。ニャチャンのホテルでそのパスポートを預かるという。理由は公安が見回りにきてチェックするからだという。そんなバカなことはない。どうなっとるんだと思い断ると初日だけでも預からせてくれ、後は入国証だけでいいからというので預けた。後でハノイの方から南下してきた旅行者に聞くとどこでもそうだと言う。たぶんホーチミンシティでもそうなのだがあまりにホテルの数が多く手が回らないので安宿ではサボっているだけなのだろう。こういうところがいかにも社会主義国なのだということを実感させられる。

さらに驚くことは国内線の飛行機に乗るときパスポートを提示させられた。要するに外国人は主要な移動時にはパスポートがなければ乗れない、泊まれないということになる。

これらは戦争終結後、政府転覆をねらって行なわれた事件などから警戒を今もゆるめていないことなのかもしれない。

ディスコ

ここ何年か、いろいろな国でディスコという文字があると行ってみるが、もうすたっていてブームは去ったという感じで客がいないとか、開けていない。ところがニャチャンのディスコは活気があり、外国人もいるが地元の若者がわんさかいてはやっていた。すばらしいパワーだ。ところがこの暑い国でクーラーがない。人がいっぱいの中でおどるから汗だくになってしまった。そのため早々に引き上げた。

清掃

ディスコの帰り22時半ごろホテルに向かって歩いていると清掃車に出会った。こんな夜おそくに日本のような圧縮車ではない普通のトラックにブロック状にごみを固めてごみ回収をしている。たいへんな労働だ。社会主義国で夜間、こういう労働をさせていいのだろうか。また日中、市民がごみをだしているのをみかけるが歩道と車道の境に袋やバケツにいれるわけでもなく、あるいは共同のごみ箱があるわけでもなく、ごみそのものを出している。

国道

ニャチャンからホーチミンシティへはバスで帰った。1号道路だ。この国道はハノイから来ている。途中いろいろな町や風景、風俗をみることができた。高速道路ではないが途中2箇所で料金所があり払っていた。カムラン湾付近は塩田が多く塩が山になっていた。そこよりさらに乾燥地帯もありサボテン状の植物が生えている。ファンティエットからムイネーに行く途中には巨大な墓地ばかりの山があり、えんえんと何山も全体が墓になっていた。

ホーチミンシティに近づくと道路にそって多量のハンモックがつるしてあるところがある。どうやら休憩所のようでトラック運転手が仮眠をしたりするみたいだ。ただ客はほとんどいなかった。昼休みならいるかもしれない。または夜行で飛ばしてきたトラックがホーチミンシティに近づいたので仮眠をとるのかもしれない。

バッテリーをつけて電気ショックで魚をとる方式の釣りざおをもった親子。向こうにみえる線はトンニャット鉄道(ハノイとホーチミンシティを結ぶ統一鉄道)。相当以前、南北統一後に「トンニャット・ベトナム」という映画を見たことがある。友だちに「トンニャットでどういう意味だろう」と聞いたことがある。「バカ、統一という意味にきまっとるだろうが」といわれたことを思い出した。戦争に勝利し平和になり発展するベトナム。行けてほんとうによかった。

 

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