ドイツ 1
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ドイツ 1   概要とライン川下りまで

2008年5月26日〜6月11日  17日間

6年ぶりの海外旅行である。オーソドックスなライン川下りとロマンティック街道を旅した。

まずおどろいたのが航空券を買いに行ったときである。インターネットで中国国際航空、北京経由で55000円という最安値を確認して営業所を訪ねた。燃油サーチャージなるものがあり37000円べつでかかる。さらに中国やドイツの出国税などでトータル97000円だ。55000円なら安いと思ったのが大間違いだ。それならインターネット上でもそういう表示をすべきだ。帰ってきたら公正取引委員会に告発しようかと考えていたら、2008年7月には燃油サーチャージがさらに値上がりし国土交通省が燃油サーチャージも含めて表示するよう通達をだした。遅そすぎる。あたりまえだ。

ドイツを選んだ理由はヨーロッパではすでにイギリス、フランス、イタリア、ギリシアといったので次という感じ。本場のラインワインとビールを飲むこと。ドイツ最大の画家といわれるアルブレヒト・デューラーの絵を見ること、アウトバーンを走ること

北京

北京経由なのでセントレア(中部国際空港の愛称)から北京に飛んだ。16時に着き、翌朝2時出発なので10時間ある。入国してどこか北京市内を見学しようと考え、ポピュラーな天安門広場に行き、その後、どこか適当にうろうろして夕食を食べることにした。

北京首都空港は今年(2008年)の3月に第3ターミナルが完成したところで、中部国際空港のターミナルビルの3倍ぐらいはありそうな大きなビルだ。本年8月の北京オリンピックのために建てたのだろう。ホンコン、シンガポールなど他のアジアの空港や上海空港に負けないため金をかけたようだ。7月には地下鉄が開通するらしいが今はないのでバスで行くことにした。

中国の漢字は現代日本のものと似ているようで異なり、判別つかないことが多い。北京空港は北京首都机場と書かれている。以前、タイペイ経由で他国に行ったとき、台湾では空港のことを機場と記述してあった。ここでは机場だ。机のという字の日本的意味からするとおかしいようだが、機でも机でも発音はいっしょなのだろう。または機の簡体字が机なのかもしれない。オリンピックも漢字で奥運なのか奥伝なのか後の字が判別つかず、わからない。

人民元がいるので両替しようと5000円札を出したら500ドル相当以上の金額でないとできないという。約5万円だ。ほんの少し見るだけなのでそれは困る。こんなことは他国ではいわれたことはない。自国の人民の平均所得の半年分、農民所得の数年分も両替しろとはどういう了見だ。毒入りギョーザやいんちき薬で全世界からヒンシュクを浴びせられている独裁国家だけのことはある。しようがないのでシティバンクのカードが使えるATMを銀行向かいにみつけ安全のため1000人民元引き出し2つの財布に分割した。たしか1元は16円ぐらいだったと記憶している。北京でトラブルしていたらドイツに行きそびれてしまう。

バスは16元でけっこう高いのではないか。天安門の門の発音はメンだろうと看板などから推察しテンアンメンと切符売り場の女性に言ってバス停の場所とその番号を聞いた。国際空港の職員だから英語は話せるだろうと思ったがよくわからない、たぶん2番バス停で1階にある。そこでまた聞いて確認した。ほどなくバスが来たので運転手にも確認して乗り込んだ。しかしどこでおりるのかはわからない。高速道路も開通したばかりで盛り土には草もはえていない。不思議なのは路肩に何台も自動車が停車してドライバーが出てきてタバコをふかしたりしていることだ。 

     

道路の向かいなのにかすむビル、灰色の空               天安門の前

それが何十台もある。タクシーでもないようだ。ひょっとすると闇タクシーなのか。市内にはいると、うわさどおりかすんでいる。原因が排気ガスなのか黄砂なのかわからない。停車している車をみるとほこりか砂がついているものもあるので排気ガスと黄砂の複合だろう。しかしほんの近くでもかすんでいるのには驚いた。

天安門の前に差し掛かったので次のバス停で降りようとしたら、それは終点で西単というところだ。民間航空の営業所がかなりはいったビルの前だ。「地鉄」と書かれた地下鉄乗り場の入り口があったので降りていった。切符の自動販売機はすべてガムテープで封印してある。自動改札機も素通りしている。なぜだろう。人間のいる切符売り場に人が並んで買っているのでぼくも買った。2元だ。天安門西駅と東駅があるので西駅まで乗った。天安門はもう閉まっていたが観光客が大勢写真を撮っていた。ぼくも撮ってから、記念に自分の姿もいれたのを撮るため、近くの警官だか軍人にシャッター押しをたのんだが断られた。それを見たアメリカ人らしい娘が撮ってあげると出てきたので撮ってもらった。天安門の西に中山公園というものがあるのではいった。3元だ。中国では孫文のことを孫中山と呼ぶらしい。孫文を記念する公園で中には孫中山先生記念の像と奥には廟があった。帰りは西単まで歩いた。天安門の少し西に同じ塀づたいに別の門があったので確認したいためだ。その門には「偉大的中国共産党万歳」「毛沢東思想万歳」というスローガンが書いてあり、中国共産党の本部ではないかと思った。写真を撮っていいものやら考えたが、カメラを構えても警備の警官も守衛も何も言わないのでシャッターを切った。

西単にもどり空港バスの切符売り場もあるので繁華街のような、においのする方向に歩いた。途中建設中のビルがあり、作業員が中に入っていく。たぶん農村からの出稼ぎ者で現場の中にいわゆる飯場があるのではないか。さらに歩くといろいろなデパート的ビルがたくさんある。いろいろ回ってどういうところで夕食にしようか考えた。ビルの中でもフードコート的エリアしかなく、どうせ物価が安いのだから良いところで食べようとさがしたがない。あるレストランで玄関があり案内係りが数人待っているところがあったのではいった。席に案内されるとすべての天井裏はまるみえでファンコイルユニット(冷暖房機)もむき出し、しかも自動制御はついていない。しかし広いフロアに客はものすごくいてほぼ満員、なんだかわからないが適当なものをたのんでビールもたのんだ。

ぼくは年間50日以内をアルコール飲酒日数にしているので(2年前までは65日だった)、ドイツに行って飲みまくるには、事前に飲まない日々を過ごさなければならない。今回は5月3日に飲んで以来23日間飲まずにがまんした。したがってきょう朝、セントレアに行く前にビールを1本のみ、空港で昼食時に2本飲み、飛行機内で2本飲み、北京空港で1本、そしてここで2本と1日中飲んですごした。1日の飲酒量は制限していない。ドイツ行きに乗れるだろうか。結局今回の17日間の旅行で10日間は飲んでしまった。年間飲酒許可日数の5分の1だ。

うろうろしていて午後9時半になったので北京空港にもどろうとバス停にもどった。なんと切符売り場は閉鎖されている。タクシードライバーがクローズ、バスは終わりだといっている。タクシーに乗れ200元だという。冗談ではない。空港からは23時半までバスがあるのに、空港に向かうバスは22時前にすでに終わりとはどういうことだ。空港は24時間空港だ。おかしいではないか。政府はなにをしているんだ。しばらくしてもバスは来ない。本当に終バスみたいだ。タクシーで行こうかどうしようか、空港から来るバスは何台も来る。乗客は降りる。バスのドライバーに聞いてみようと乗客が降りたバスに乗り込んだ。いろいろ言ったがだめで、しようがないので80元払うから空港に行ってくれと頼んだ。後ろで聞き耳を立てているタクシードライバーもそうしろというようなことを言ってくれたのでバス運転手は行く気になった。100元札を渡すと20元おつりをくれた。途中運転手の携帯電話に何度が電話があったが空港に着いた。そうしたら運転手は100元札を返し空港であの男に金を払えという、たぶん携帯電話にどうしたとかいうことがかかってきて、やばいと思ったのだろう。ぼくは20元札を返してバスから降りて整理員に16元の金を払った。結局帰りも正規運賃でこれてよかった。無事、ドイツ行き飛行機に乗れた。

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ドイツの概観

通貨

ドイツの通貨はユーロでこの時期1ユーロは167〜168円だった。3ヶ月後には148円に値下がりしていた。一番高い時に行って割損な旅だった。ユーロ導入時は132円だ。168円は記憶にあるかぎり一番高い。

都市

ぼくが訪問した都市はフランクフルト空港→マインツ(1泊)→ライン川 くだり→コブレンツ(1泊)→ヴュルツブルク(ロマンティック街道始発地)(2泊)→レンタカーで移動→ヴァイカースハイム→クリクリンゲン→ローテンブルク(1泊)→ディンケルスビュール→ネルトリンゲン→ドナウヴェルト→アウクスブルク(2泊)→シュヴァンガウ(1泊)→フュッセン(1泊)→ミュンヘン(4泊)→フランクフルト(1泊)。

1回の旅行でこんなにたくさんの都市に行ったのははじめてだ。このうちヴュルツブルクからアウクスブルクまでの2日間はレンタカーでロマンティック街道と一部アウトバーンを走り移動した。他はドイツ鉄道DBで移動した。当初ロマンティック街道はヨーロッパバスというもので移動しようと考えていたが途中下車して翌日も有効なのか、同一のバスのみ有効なのか、ドイツ観光局や旅行サイトのWebサイトで質問したが誰も回答しないのでレンタカーということにした。

ロマンティック街道を走っていて一番おどろいたのは、交通標識である。ドイツ語と日本語で書かれている。他の言語では書かれていない。このロマンティック街道を示すタイプの標識はこの街道のあちらこちらに設置されていた。いかに日本人が多く来るのか想像できる。

人口はマインツ(202,563)、コブレンツ(107,164)、ヴュルツブルク(130,000)、ヴァイカースハイム(7,600)、クリクリンゲン(5,000)、ローテンブルク(12,000)、ディンケルスビュール(11,600)、ネルトリンゲン(20,000)、ドナウヴェルト(18,200)、アウクスブルク(275,000)、シュヴァンガウ(不明)、フュッセン(14,000)、ミュンヘン(1,300,000)、フランクフルト(650,000)

ドナウヴェルト以外は町の真ん中に広場(ほとんどはマルクト広場つまり市場広場)があり周辺道路を含めてかなり広い範囲で歩行者天国。広場ではたぶん日曜以外毎日、市が開かれる。歩行者があふれ、日本のように町の中心部がシャッター通りと化して閉店店舗ばかりの状態ではない。ただ観光地ばかりに行ったからかもしれない。また人口の少ないヴァイカースハイムでは歩行者も少ない。

道路

ヴュルツブルクでロマンティック街道を走るためレンタカーを借りた。駅前レンタでヨーロップカーという会社だ。2日間で99ユーロ、レンタカーはすべてマニュアルギアでディーゼルだ。アウクスブルクまで370キロ走ったが燃料はメーターの3分の1しか消費していなかった。約23リッターだった。最初右側通行なので駅構内をでるまでにぶつかりそうになり、さらにディーゼルはエンストした後の再起動がめんどうでバックギアは押し込んでからいれなければならない。このままではとうからず事故を起こすかもしれないと不安になったがだんだんなれてきた。しかし右側通行というのは車体の右側の間隔に対する感覚がうまくつかめず、ある町の右カーブで縁石に乗り上げて猛烈なショックを受けた。たぶんそのときだろうが右前輪のタイヤホイールがどこかに行ってしまった。翌日返却のとき、たぶん賠償金をいくぶんか、取られるだろうと覚悟していたが、係員は気づかないのか、そういうものは無関係なのか、何も言わないし余分な追加費用もとられなかった。以前イギリスでエイビスレンタカーでわずかな傷で追加費用をとられたのと比べるとかなり違う。助かった。

一般道路は一旦町を出ると交差する道路もほとんどなく走れる。一般道でも80キロは出している。路側帯もほとんどない田舎道で100キロ近く出していくドイツ人の車にカーブで転倒したり対向車とぶつかりはしないかと思い、とてもついていけなかった。ときどき村を通過するが村の名前の書いた標識があり、村を出るとリバース的白黒の名前の標識があり、村が終わったことがわかる。

走行中、分岐の標識があるが速いスピードでドイツ語の地名を見て曲がるのか、まっすぐ行くのか判断しないといけないのでたいへんだ。特に地名が3段ぐらい書かれていて3段目が目的地だと、読み終える前に標識を通過してしまう。

郊外ではほとんど交差する道路がなく、ようするに道路が少ない。交差道路が少ないからアウトバーンでも郊外では農地と同じ平面にあり、高架や土盛りはする必要がない。建設費は日本よりはるかに少なくてすむのではないだろうか。また無料なのでサービスエリアなどはなく、インターチェンジから出てドライブインにいけばいい。ちょっとしたパーキングエリアとトイレはあった。都市近郊は半地下式が多い。速度制限はないが一部120キロとか制限がかかっていた。180キロまでは出したがそういうスピードで走ったことがないし、なれない右側通行なのでこわくてそれ以上は出さなかった。普通に170キロぐらいでみなさん走っていた。自動車のメーターは日本だと180キロまでだが、こちらは240キロまである。かつて東名高速で140キロ出したことがあるがガソリン消費量が異様に多く、長くは走れない。現在では東名は通常でも混雑していて80キロから100キロまでしか出せない。貨物は鉄道輸送が主力なのか、道路をトラック、トレーラーが日本のようにどんどん走っていない。エコ、CO2削減の利にかなっている。ただぼくが走ったのはほとんどバイエルン州のみなのでドイツ全般でどうなのかは、わからない。

最近、日本では自転車による歩行者への加害交通事故が多いとキャンペーンしていて自転車用車線を作る動きもある。ドイツではかなり多い割合で歩道に自転車走行車線が識別してある。

日本では子どもを乗せるため自転車の3人乗りについて対策案がニュースで出たりするがここでは自転車で車高の低い小さな荷車を引いて走っている人がいる。高さ長さとも80cm幅60cmぐらいの両側に車輪のあるものだ。直接連結する器具がある。そして子どもを乗せる荷車タイプもあり走っていた。そういうものなら転倒の危険もなく子どもを連れていくことができるだろう。自転車そのものを3人用とするのでなく発想の転換が必要なのではないか。

鉄道

5回ほど乗車した。ライン下りの船に乗っているとライン川両岸にある鉄道路線で非常に頻繁に貨物列車が走っている。旅客列車の本数の4、5倍は走っているかんじだ。鉄道輸送なら1人か2人で何十両もの貨物を運ぶのだからエネルギー効率も人的効率もいいし、道路もすく。これからCO2削減するためには鉄道輸送を日本ももっとふやさないとダメだろう。

ヨーロッパはバリアフリーが進んでいるはずだが、鉄道はダメだ。列車の入り口とプラットホームの高さが違う、都市近郊は同一高さのところもあったが大抵1、2段は登らなければならない、最低でも1段はある。しかし車内はICE (Inter City Express) やICではかなり広く、身障者用トイレも広いスペースだった。しかし指定席でWagen21 Sitzplatz83と書いてあるが21両編成でなく、ホームの駅員に聞いてもわからない。実際乗車しても1号車とか2号車の番号だ。1号車の座席番号83のところに座った。どうなっているんだろう。

ドイツ人

ドイツ人成人のおそらく70%はウエストが1mを超えるのではないだろうか、さらに成人の20%はウエストが1.5mを超えるのではないだろうか。日本なら考えられないことだがキャミソールからへそを出した若い娘の腹がたるんでベルトの上で3段腹になっている。そもそも腹が肥満で出っ張っている。日本ではメタボリック・シンドロームといって削減に努力しているがドイツでは末期症状になっているのではないだろうか。心臓病などで死亡する人が大半ではないか。以前に当時のコール首相を批判する野党の総選挙テレビコマーシャルで「重すぎて未来に飛び立てず」というものをニュースでみて大笑いしたことがあるが、その後のシュレーダー元首相でもかなり肥満だ。こんなに太っていていいんだろうか。肘にはめるタイプの松葉杖をつく老人がかなりいるが太りすぎ体重で足や膝関節を傷めたせいではないか。食べすぎだろう。レストランで注文すると、どの料理でも食べきれないほどの量だ。太いアスパラガスが10本に小型のジャガイモがゆでて15個以上も皿にのって出れば食べきれない。シュバイネハクゼという骨付き豚肉のローストが出れば格闘しながら食べ終わるまでかなり時間がかかる。そのうえ直径6cmぐらいの大きな団子が2つ付いてくる。

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フランクフルト空港

中国国際航空CA965で7時すぎに到着。入国窓口がけっこうあるわりにはEU国民用が多く、外国人用は少なく非常に時間がかかった。ドイツ鉄道DBの空港駅に移動。フランクフルト市内に行くかマインツまで直接行くか、迷ったがマインツに行くことにした。切符の自動販売機はドイツ語、英語、フランス語、スペイン語、イタリア語とトルコ語(トルコからの移民が多いため)に対応しているが、文字盤もかすれているところもあり、言語の切り替え方がわからない。有人の窓口もない。聞いた人もよく教えてくれない。しばらく考えてなんとか購入。列車もすぐに来たので無事マインツに着いた。ガイドブックにのっている駅前のホテルを探して荷物を降ろした。

マインツ

この町はライン下りの始発地だ。中世ではマインツ大司教の司教座、グーテンベルクの生まれた町、ヒルトンホテルが2つもある。人口は20万人ほど、しかし市役所は5階建ての小さなもの。日本なら3倍はあるだろう。ぼくの住んでいる市でも人口10万で今年立て替えたがこれの2倍はかるくある。古い方でも大きい。他のヨーロッパ諸国でも日本との比較で行くとやたらと役所の建物が小さい。それが不思議でしかたがない。パリ市役所でも区役所でもローマ市役所でも、華麗ではあるがとても小さい。すべての行政部門がはいれるのか、行政担当の範囲が狭いのか。マインツは近代建築の市役所ビルだが大抵は18世紀か19世紀かもっと古い建物だ。

マインツの駅前ではいわゆる市電(Uバーンという)と2両連結のバスがあり、公共交通の比率が大きいのかと思う。日本で市電が残っているのは限られた都市だけだが、この後、まわった大中都市はどこもUバーンがあり、2両連結のバスが頻繁に走っていた。

シラー通りを歩き左折すると大聖堂が見えてきた。なにやら劇場がありマルクト広場についた。市が開かれていて大勢の人が買い物をしている。野菜、くだものの店がものすごい数出ている。生活物質なので基本的には地元の人が買っているわけでよくこれだけの人が  集まるものだ。

 

マルクト広場の市、                                  大聖堂とトレーラー店舗

マルクト広場の続きにあるリープフラウエン広場にはトレーラー型の店舗が十数台出ていて。それぞれ何十種類ものハムやソーセージを売っている。トレーラー店舗はエンジンをかけて冷やしているのではなく広場に電源がありそこからコードを引いている。アイドリングのようなCO2をだすことはしていない。タクシーもアイドリングして客待ちはしていない。ただ真夏もそうなのかはわからない。そのハムだけとかソーセージと少量のパンだけで食事している人がたくさんいたのでぼくもほしくなり買って食べてみた。ソーセージは少量だと思うが食べているとくどくなる。その後、大聖堂付属の博物館を見学した。

大聖堂の反対側にはグリム童話に出てくるような木組みの家が立ち並んだエリアがあり、そこでラインワインを飲んだ。

   

ライン川まで歩きどういう川か見た。日本の遊覧船とは比べ物にならないほど大きく長い客船といってもいいラインくだりの船がゆうゆうと走っていた。

  

船が航行できるように橋はかなり高くかけられており、橋詰めはかなり登る必要がある。

ローマ・ゲルマン博物館に行った。なにやら非常に大きなL字形の建物の片翼のしかも3階だけが博物館になっているがそれだけでもかなり広く展示物も多い。さらに1階におりると庭をはさんで向かいの2階建てにも展示がある。主にローマ帝国時代の遺品の展示だ。ローマ帝国はライン川の西側まででライン川が国境だった。マインツも一応ライン川の西側だがここまで南がローマ帝国だったかは、よく覚えていない。

グーテンベルク博物館があるはずなので、また広場にもどって入館した。地下に再現した印刷機があるので降りていったら係員がついてきて実演してくれた。たしかに1枚1枚手書きするより早いが、これでは相当時間がかかる。本1冊作ろうと思ったらほんとうに膨大な時間がかかる。しかしこれから改良を重ね続け現在がある。そういう人間の英知に敬意を表したい。別館には中国、日本、韓国の古い印刷関連の展示もあった。

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ライン川下り

翌日はマインツ始発からコブレンツ終点まで遊覧船で下った。料金は案外高くて45ユーロ。時間は約6時間かかった。逆にコブレンツからの川登りだと7時間半かかるらしい。もっと下流から乗ることできるが、まあ、あくせくしないことにした。ライン川は貨物船も行き交い、マインツにも港がある。岸に1キロごとに距離の看板がある。源流からの距離だろう。マインツ市役所付近で498キロメートルだ。下流のローレライ付近で555キロメートルの看板だ。

 

左の建物がラートハウス(市役所)、中央奥が大聖堂、手前は桟橋

途中リューデスハイムまでは平野で農地やときどき工場が見える程度、リューデスハイムが近づくと突然両岸が山になってくる。ここから先が古城エリアなので早めの昼食を階下のレストランで食べていた。リューデスハイムの桟橋が見えると、そこに150人ほどの人が並んでいる。日本人がかなりいる。これはいかん、あれだけ乗り込んできたらデッキの席がなくなると思い急いで支払いをすませデッキの先頭正面に席を確保した。タッチの差で乗客がなだれ込んできた。いままでの港ではほとんど乗る人はいなかったがここでは大半が日本人だ。

 

手前はぶどう畑、こんな斜面ばかりだが収穫のとき転げ落ちないだろうか。右はプファルツ城

 

岩山がローレライ。                                   右はねこ城

ここから先は山で主に右岸にぶどう畑が急斜面に広がり、ワインになる。10以上の城がコブレンツまで集中している。ドイツに来る前にいろいろな本を読んだがローレライは「ヨーロッパ三大がっくり」の1つだと昔からヨーロッパでは言われていると書いてあった。あまりにハイネの詩が偉大なので負けてしまうのか。金髪の乙女はどこにいるんだろう。近づくと船がローレライのメロディを流し始めた。本によると日本人がここで歌いだすとある。歌うかどうか、何人かが口ずさみ始めた。ローレライは頂上に展望台があり、そこから見下ろすと迫力があると書いてあった。もどるとき、そこに行こうかとも思ったが結局列車で戻ってしまい行かなかった。

日本人観光客といっしょにワインの販売員も乗り込んだらしい。しかも貴腐ワインやアイスヴァインの試飲をさせてくれ、それら日本ではなかなか手に入らないワインを販売しているので、せびこの機会に購入を勧めますという船内放送をしてから、実際に貴腐ワインやアイスヴァインと称するもののボトルを持って注文用紙とともに歩いている。売り手は日本人の若い女性たちだ。常識で考えてもそういう貴重なワインを試飲させる道理がない。しかも彼女たちはザンクト・ゴアルスハウゼンで下船したがボトルをクーラーボックスにいれるでもなく手持ちでがちゃがちゃさせながら桟橋を渡っていた。試飲用はどうせ白ワインに砂糖でも補ってそういうボトルにいれているのだろう。はたして本物が日本に送達されるのだろうか。

ザンクト・ゴアールの桟橋に着いた。大挙して乗り込んだ日本人などはここでほとんど全員おりてしまった。ここで昼食を食べるらしい。

 

ザンクト・ゴアール                                   マルクスブルク城

 

コブレンツの町が見えてきた。                コブレンツ中心部、一帯がここも歩行者天国

コブレンツの港というか桟橋というかに、6時間かかり到着した。コブレンツの市内はメッテルニヒの家やライン川とモーゼル川の合流するドイチェス・エック、聖母教会などを見た。選帝侯の城ははいろうとしたら現在、役所になっていて見学はできなかった。ラートハウス(市役所)一帯はかなり広い範囲で歩行者天国、地元の人や観光客でにぎわっていた。

それにしても客船ともいえるような大型船に何隻も出会い、川下りや川登りの客もはんぱな数ではないなと思った。さすが世界遺産だ。

帰国してから知ったことだがコブレンツの近くにはニュブルクリンクというF1レースのサーキットがあり、料金を払えばコースを走れるそうだ。

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ドイツ2に続く

 

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