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インド
1997年10月29日 ぼくは1997年10月5日から25日まで3週間インド旅行をした。過去にいろいろな国に旅行したが8日間程度であり、行ったことのない国に3週間ははじめてなので不安があった。しかしあぶない目にも合わず帰国できたのでその印象を記録しておく。この文章にはまったく率直にインドについての印象、感想、ぼくが見た範囲での実態を書く。それは事実とは異なることもあるかも知れない、インド人が怒ることもあるだろうが、ぼくの認識の限界としてやむをえないものと考える。
上表のように13の地に行った。印象としては行った順番に貧しくなっていくような気がした。特にガヤ、ボードガヤをはじめ仏教になじみの地がおおいビハール州(ビハールとは僧院を意味する)は特に貧しく、犯罪も多いと聞いていた。そのビハール州のガヤに夜行列車が2時間半おくれて夜の11時50分についたのでぼくは気が気ではなかった。ビハールが貧しいのはイギリスの搾取がとりわけひどく穀倉地帯のこの地を疲弊させたからだとインド人は言っていた。ぼくが小学生のころインドで飢饉があり、餓死者がでたという報道があったのを覚えている。そのときもイギリスの搾取による負の遺産により飢饉は生じたと言っていた。日本人でサイクリングでインド1周している青年にあったがビハール州にはいると武器を売っている店があり、おまえも買った方がいいぞと言われたと言っていた。別の日本人はガヤに夜着くのは危険だと言ってわざわざ日中1日使って移動してきた。 1997年 今年はインドが独立してちょうど50周年の年だった。テレビでもそのころの時代のドラマを作って放送していた。政府はキャンペーンを続けている。鉄道には50周年のマークシールがはられ、テレビでも同じマークが常時出ているチャンネルもある。50周年を前にして植民地時代の地名をかえたところもある。ボンベイをムンバイに、マドラスをチェンナイに変えている。ぼくは政府系の1流ホテルでウェイターに独立記念日はいつか聞いたがしらなかった。カレンダーをみせてもらって8月15日ということがわかった。ぼくがインドにいた時期ちょうどエリザベス女王がインドを訪問していた。たぶん10月7日ぐらいから10日か2週間ぐらいいたと思う。各地をたずね、イギリスが虐殺をした地で犠牲者の記念碑に花輪を捧げ、謝罪の言葉をいっていた。しかし当然、各地で抗議の集会、デモがあり報道されていた。 通貨 単位はルピー。100パイサで1ルピー。1ルピーは約3.3円。しかし物価と所得水準が違うので1ルピーは50円から150円ぐらいの価値感覚ではないかと思う。少額貨幣の流通が少ないのか非常におつりで苦労する。8ルピーのものに10ルピー札をだすとおつりがないと言う、30ルピーのタクシー料金に50ルピー札をだすとおつりがない、4ルピーのバス賃に5ルピー札をだすとない、政府系の1流ホテルでも5ルピーのおつりが出せない。2ルピーや5ルピー札はボロボロ、コインもでているのだからもっとコイン鋳造をふやせばいいと思うがいったいどうなっているのかぼくらにははかりしれない。 州 インドは連邦共和国。ぼくが行った州はインド中心部のおおきな州ばかりだった。行った順にいうとマハーラーシュトラ州(8000万人),ラジャースタン州(5000万人),デリー直轄地(1000万人),ウッタルプラデッシュ州(17000万人),マディアプラデッシュ州(7000万人),ビハール州(9000万人),西ベンガル州(7000万人)。州は人口からいってもひとつの国である。州の独立制は高くそれぞれ大臣がいる。ウッタルプラデッシュ州議会で乱闘がありテレビでみていたが各議員が自席のマイクスタンドをちぎりチーフミニスター(州政府の長)に投げつけている。後で閣僚のインダビューをみると州首相は頭に包帯をしている。教育相は女性だがインタビューに対して歌をうたっていた。この乱闘は昔、日本でもあったように思う。 鉄道 鉄道は運行距離が1000キロ単位が多く、スピードははやくなく、夜行になるため寝台急行がほとんど。知りうるかぎり電車ではなく、ディーゼル機関車だ。料金も急行はエアコン1等から1等,寝台クラス,2等など7段階に分かれている。普通も3種類あり、その料金格差ははげしく、普通の2等と急行エアコン1等はだいたい20倍ある(日本、のぞみグリーン車と普通でも2.5倍。ただ日本は運賃水準が高い)。飛行機はそのまた2倍以上。鉄道のチケットを買うのに最初は半日かかるとガイドブックに書いてあった。ぼくもムンバイで2時間かかったがとても無理だと思い急遽、飛行機にした。ムンバイのビクトリアターミナス駅には何万人も人がおり、チケット売り場には何百人も並んでいた。窓口はたくさんあり、コンピューター化されているにもかかわらず行き先別に窓口がわかれており、2種類買うなら並びなおさねばならない。デリーには外国人用チケットロビーがあり、そこでなら簡単だった。バラナシ駅ではたった10人なのにある人で20分も止まったり、駅員が突然ぼくのひとり前の人のとき席を立ってきえたりで1時間15分もかかってやっと買えた。駅員が消えたときは思わずカウンターを足で蹴りあげてやった。シャカが覚りをひらいた国だが、ぼくは自分が覚りをひらけないことを覚った。チケット購入には行き先から等級などのほかに氏名,年齢,住所まで書いた購入用紙に記入しなければならない。当日、駅にはどの車両にだれが乗るかプリントアウトが張りだされるので確認する。始発駅なら各車両のドアにその車両にのる人のリストが張り付けられている。デリーからアーグラーまで乗ったシャタブディ急行(インドも急行には名前がついている。特急という名称はなくすべては普通か急行である。)はスーパーファーストエキスプレスと呼ばれる。たぶん鳴り物いりで登場した急行だろう。これにはまずミネラルウォーターがサービスされ、フルーツジュースが配られ、朝食までサービスされる。サービスは飛行機のようにすごい。しかし座席は薄汚れている。新幹線のように座席に白いカバーがかけられていたのだろう。それをとめるマジックテープの後があるがいまは実施されていない。デリー,アーグラー200キロを2時間ぐらいで走るので表定速度は100キロぐらいか。あるインド人は日本の新幹線のようにはやいぞといっていたが。昔、新幹線はそのスピードもさることながら、このような高速特急が1時間に何本も運行しているのは世界でもまれだといっていたがこのシャタブディ急行は1日に1往復だけである。 バラナシからガヤに行くとき列車のチケットに書かれた記号が車両番号ではないような気がしつつも乗ったとき。車掌が「これは空席待ち番号だ。あんたの席はない」と言われた。410ルピーというインドでの大金をはたいたのに席がない。ぼくは頭にきた。外国人用窓口でチケットを買ったときには一言の説明もなかったからだ。ずっーと立っていかなければならないのだろうか。ぼくは車掌室のイスに陣取り、車掌がどけと言ってもがんとして動かなかったら、車掌がエアコン寝台はないが1等寝台ならある。それでよいかという。立っていくよりましなので妥協して、その車両に行った。1等寝台はコンパートメントに分かれており、2段ベッドが向かい合わせになって1コンパートメントで4人が定員だ。ところが案内されたコンパートメントにはなんと1段目のベッド兼座席に向かい合わせで6人ずつ計12人がいた。車掌がなにやらチケットをみせろとでもいうと9人が立って出ていった。そこにぼくとやはり空席待ちかなにかで座れなかったインド系香港婦人が座った。そのうちホンコン人は女性なのでまた別のところに案内されていった。残った3人のインド人のうち1人はチケットがないらしいが、車掌の督促にもかかわらずがんとしてどこうとしない。そのうち車掌が最後通牒みたいなことを言ったので出ていった。結局チケットをもっていたのは最初12人いたうちの2人だけということになる。このドゥーン急行は2時間半おくれてガヤに着いた。後日、旅行中の日本人に聞いたら別の日でもドゥーン急行は3時間半遅れた。別の人も別の日だったが2時間半遅れた。シャタブディ急行でもアーグラーには10分遅れた。翌日アーグラーからカジュラーホーに向かうため、またシャタブディ急行にのったが10分遅れできた。つまりある列車が遅れるのはたまたま偶然や事故ではなく、そのダイヤでは運行できないからいつも遅れるのだと判定した。実際ドゥーン急行はバラナシには15分停車するはずだが車掌の交替だかなんだかしらないが車掌がホームで乗客名簿をみながら話し始め30分停車していた。これが重なればどんどん遅れる。車掌は1等担当、2等担当と何人もいるようだ。そのうえその助手もいる。総じて人員はなんでもおおぜいいる。バスでも車掌は2人いる。そのうえ荷物つみ係も別にいる。この1等寝台のように無賃乗車もけっこうあるみたいだ。カルカッタに向かうときも、ある初老の人がぼくの席とかわってやると言う。都合がいいのでかわったが車掌がまわってくるとその人がその席はぼくが持っている席だということを車掌に説明してくれと督促するので説明した。彼もチケットはないのだとわかった。2等寝台はコンパートメントにわかれていないが同じ面積に3段ベッドを含んで8人分の寝台がある。1等の2倍だ。シートはきたなく窓には鉄格子がはまり、まるで動く監獄だ。しかしよく考えれば20年前ぼくが北海道にスキーに行ったとき、急行八甲田にのったが寝台がとれず座席にくぎづけでいった。そのときなれた人は通路に新聞紙をひいて寝ていた。あの時代は家から札幌までまるまる24時間以上かかった。また東北にスキーに行ったときも仙台まで特急はつかりで8時間立ちっぱなしだった。そういうことを思い出すとあんまり悪くはいえない。 ぼくは410ルピー払ったのに不合理であったので翌朝、駅にいって全額払い戻せと言った。実際には1等寝台に席がとれたがずっーと立ちっぱなしだったと言い、全額かえせと迫った。払い戻し係の机を思いきりたたいてみたががんとして聞かない。払い戻し係がホームに逃げだしたのでなおも追いかけたがまわりの乗客になにやら言っている。群衆が集まり警官が出てきておおさわぎになったがなんともならない。バラナシにもどりそこで処理しろという。ぼくはバラナシ駅もガヤ駅も同じ会社ではないか、そちらで処置しろ、旅行者がいまさらバラナシまでもどれるわけがないと言ってもだめだ。別人がでてきたので事情を説明しても同じ、駅長に言えというが駅長は10時にしか来ない。ぼくはその日ボードガヤに行くので翌日、駅長に会って説明したががんとして応じない。これは外交問題だと迫ったがだめだった。普通、日本ならなんとかなるのがインドではなんともならない。 鉄道駅には改札口はなく車内で車掌がチケットチェックするだけ、だから無賃乗車がはびこるのだろう。ただ深夜の到着では駅の出口に改札員がいてチケットをみていた。そして駅を出てびっくりした。駅前広場いっぱいに何百人もの人が毛布やただの布を敷いて寝ているのだ。ひょっとすると1000人を超えているかもしれない。その他、駅舎内やホームでもおびただしい人が寝ている。 プラットホームにはごみ箱はいっさいない。人々はバナナの皮やオレンジの皮を線路に捨てる。女性をのぞいて子どもや男性はホームから線路に向かって小便をする。列車の便所からでた大便がところどころに落ちている。するといつのまにか牛が線路にきてバナナの皮を食べていく。その牛を機関車が汽笛で追っぱらいながら通過していく。そのうち突然普通列車がホームのない退避線路に停車した。列車から乗客がおりる。乗る人はみんな線路におりてその列車に向かって乗る。60ぐらいの老婦人がおろおろしている。ぼくにヒンズー語でたずねるがわからない。たぶんあれがどこ行きか聞きたいのだろう。そして1mもあるホームから線路に降りれないので困っているのだ。しかしぼくには彼女のめざす列車かどうかもわからないので打つ手がない。彼女はインド人に聞きに行った。ホームはいっぱいあいているのになぜ、退避線に列車をいれるのだろう。日本よりはるかに営業キロがあるインドなのに時刻表はぺらぺらの120ページしかない(ダイジェスト版)。駅でみてもたいした本数はない。ただし1編成は22両とかけっこう長い。客は争うほどいるのになぜもっと本数をふやさないのだろう。インド鉄道は殿様商売の感じだ。 バス ほとんどの町にはバスセンター,バスターミナルがあり何路線も運行している。雨季などに道路がぬかるむからか、非常に車高が高く、乗降ステップの初段目が70cm以上ある。老人にはきついだろう。州によってバスの程度はちがう。ムンバイのあるマハーラーシュトラ州などは比較的いい。ビハール州ボードガヤではバスに乗り込もうとして、真っ黒によごれきった座席、ガタガタの車内で思わずまた降りてしまった。しかしまわりには代替手段がないのでまた乗ろうとしたが、またためらって降りてしまった。3度目に決意して乗り込んだぐらいひどいバスが運行している。乗客もやぶれたサリーを着た女性、袖のとれかかった服を着た子どもたちと日本では浮浪者も着ないボロである。そして乗り込んだらみんないっせいにぼくの方を見るのでびっくりした。ジャイプールからデリーに行く長距離バスにはデラックスバスというものがあり、その予約をとり、300キロを4時間40分で結ぶと書いてあるのでけっこう速いじゃんと思い乗り込んだ。途中1度だけ専用の休憩所で30分休憩して後はノンストップ。国道もがんがんとばしたが2時間おくれでついた。もともと4時間40分では無理なのだろう。バスは日本のちょっと古い観光バスというクラスだった。 タクシー 黄色い屋根に黒い車体、国産のアンバサダーという20年も30年も使い込んだ車だ。ムンバイでは中心部はオートリクシャでははいれずタクシーばかり。メーターで走ってくれた。デリー、カルカッタはメーターでは走らない。渋滞がひどくメーターでは採算われするという話(メーターは距離時間併用制になっていない)。 オートリクシャ 昔のミゼットのような2サイクルの軽自動車。ハンドルはバイクのような1本ハンドル。座席は3人かけが1列か2列。州によって規制が違う。メーターで走ったのはマハーラーシュトラ州のみ、他はメーターでは走らない。ビハール州にいたってはメーターがついていない。古いオートリクシャで1日50ルピー、新しいものは75ルピーぐらい借り賃を親方に払わなければならないとのこと。そのほかにガソリン代とエンジンオイル代がいる。ガソリンは日本と同じぐらいの価格でけっこう高い。だからみんな交差点で止まったり、長い下り坂だとエンジンを切っている。ジャイプールでは1日200ルピーで貸し切ってくれとしつこくいわれてそれで手をうった。1日に経費が100ルピー出ても200ルピーでいいということはそうとう低い収入ではないか。外資系の高級ホテルの前を通過するときよく彼らがこのホテルは2000ルピーだ、あれは3000ルピーの宿泊料だと教えてくれるが、彼らの1カ月分のかせぎ以上の金を1泊で使う人たちへの複雑な思いが感じられた。1度のったことのあるリクシャに町で偶然にまた会うとクラクションを鳴らして合図をしてくれたりする愛想のいい人も何人もいた。 サイクルリクシャ 日本に昔あった人力車に自転車をつけひっぱっていく。マハーラーシュトラ州にはない。道路の舗装はガタガタ、自転車にはギアがないのに人力が動力なのでそうとうきつい仕事。客をのせていると少しの坂でも動けないので車夫は自転車から降りて引いていく。60才以上の人も現役でほんとうにかわいそう。交差点で先頭にいても自動車やオートリクシャや若い人にぬかされ信号が赤に変わるころにようやく渡りきれる。せめてギアがついていれば、日本なみに道路が舗装されていればと思う。聞いたところ1日25ルピーぐらいをリクシャの借り賃として払わなければならないとのこと。大都市中都市ではすでにオートリクシャの方が優勢になりつつあり、すたれていく運命にある。しかしバラナシではまだサイクルリクシャが圧倒的に優勢である。地域全体の所得や町の構造にもよる部分がある。走行距離にしても2kmぐらいが限度で遠いと相当時間もかかるし、乗っていても気の毒になる。 リクシャ(人力車) 人力車が走っているのはカルカッタただひとつである。カルカッタでも郊外はサイクルリクシャであり、規制でこうしていると考えられる。大通りは走れない。せまい牛の糞のある道をはだしで走るリクシャワーラー(車夫)はほんとうにたいへんだ。カルカッタはインド唯一地下鉄のある都市であると同時にもっとも原始的な交通機関もある都市となっている。 飛行機 まったくの金持ちと外国人の交通手段。日本だと名古屋札幌という2都市間をむすぶ路線が多いが国土の広いインドではたとえばムンバイ,デリー便だと途中アウランガーバード,ウダイプール,ジャイプール,デリーと1500キロをピョンピョンとんでいる。エア・インディアの本社はムンバイにあり、デリーより国際便は多い。特にオイルマネーの中東にはほとんどムンバイからでている。そのためムンバイのホテル料金は極端に高い。国内便はインディアン・エアラインズが最大手。ぼくは合計3回国内便を使った。インドに行く前、シーク教徒の過激派が2等列車を爆破したのでぼくはあまり列車にはのりたくなかった。改札もなく出入り自由の鉄道とくらべ、飛行機は国内線でも厳重なチェックがあり安心できるような気がした。なにより長距離を夜行で遅れてつく列車よりはやくていい。 停電 アウランガーバードには4日間いたが停電は1回20分だけだった。ここでは停電はめずらしいことのようだ。なぜならホテルに自家発電機がないからだ。アーグラーには1日いたが夜3回停電して最後は翌朝まで復電しなかった。ホテルはすべてディーゼル自家発電機をもっていて停電するとすぐに運転して切り替える。ディーゼル発電機の音が非常にやかましく、排気ガスがもんもんとあがりひどい状態になる。カジューラーホーでは2日で3回のみ、バラナシは2日で1回1時間のみだった。アーグラーのひどさは断トツだ。 公害 ジャイプールからバスでデリーにはいったとき30km手前からまわりがかすみだした。インド人は砂ぼこりだと言ったが排気ガスの充満が原因だ。ニューデリー真ん中のインド門もかすんでいる。日中デリーでオートリクシャに乗っていると排気ガスで目がチカチカする。タージ・マハルのあるアーグラーは排気ガスで町中おおわれている。そのうえ停電でまわす自家発電機の排気ガスが火に油をそそぐ状態になっている。何年も前タージ・マハルのニュースで近くの工場廃ガスでタージ・マハルの白大理石は風前の灯火であると報道していたがまさにそれだ。われわれはタージ・マハルの見学の際、電気自動車に乗り換えさせられたがもっと根本をなおさないと全然だめだ。政府は公害追放のキャンペーンをしているが、インドの自動車の95%オートリクシャのすべてを廃車して排気ガス対策ずみのものにしなければこの排気ガス公害はなくならないだろう。大都市はすべて排気ガス公害でかすんだ町と化している。 言語 ビンズー語が公用語。英語は補助公用語。その他に14の地方語が公認されている。ぼくはもっと英語が通じるもの(昔イギリスの植民地だったし。)と思っていたがまったく通じないときも多かった。特に旅行者がよく利用するタクシー、リクシャの運転手で通じない人が多いので困った。発音も相当くせがあり「R」 の音を必ず「ル」というのでわかりずらい。たとえばウォーターをウォータル。マーケットをマルケット、グッドモーニングをグッドモルニングという感じ。ほんとうはその国の言葉でできるかぎりはなさなければいけないのだが、ぼくはどうしてもビンズー語の辞書なんかひいておるとまどろっこしく実際はあいさつ程度で後は英語で会話した。 道路 人が異常に多い、車も多い。左側通行で信号がある所は守るが後は割り込み自由、強いもの勝ちですぐにクラクションをならすのでうるさくてしようがない。信号は非常に少ない。歩道は屋台が占領している場合が多く、歩行者は車道のはしを歩く。横断歩道はほとんどない。横断は命がけ、老人にはつらい。大都市でも巨大な街路樹が多く。緑は濃い、日差しがつよいので人々は日影をこのみ、街路樹の植樹もさかんだが牛に食われないようにフェンスやれんがで囲ってある。大都市では少ないが牛が渋滞する道路にでんとすわりこんでよけいに渋滞をあおったり、いのししのようなぶたややぎ、犬が道路を歩き、馬車ならぬロバ車やらくだ車(ラジャースタン州)まである。犬はほとんど昼寝をしていてたぶん腹がへったときだけ起きて近くのごみ捨て場でえさをあさって、また寝るのではないだろうか。道路というのはごみ箱を兼ねているというのがインド人の考え方ではないか。ある道路を走っていると突然道幅が半分になる、どうしてかとみると反対車線は全部ごみ捨て場と化している。その中からビニールを拾い出し(売れるのかもしれない)、その後を前出の動物たちとカラスがつつく。そういうごみ捨て場に道路を清掃して持ってくる人たちがいるがたぶんそういう清掃人が低いカーストの人たちではないかと思う。エリザベス女王が「デリーはきたない町だ」と発言したことが新聞にのっていた。それに対してインドの首相は「これから2,3年かけてもっと公衆便所をふやし、ごみの回収を毎日するようにしていく」と見解を述べたニュースがあった。マハーラーシュトラ州ではアジャンターに行く国道をほぼ全域にわたって対面通行できるように拡幅していたが30cm角の岩をトラックで持ってきて道路におろし、それを人間がその場でハンマーやのみを使ってくだいてじゃりにしていた。そのじゃりを5キロぐらいずつ、ざるにのせ、それを頭にのせて女性がサリー姿で運んでいた。人力を主にした工事でたいへんだ。 人々 貧富の差が非常にはげしい。鉄道料金がそれを反映している。学生でも非常に高い飛行機にのる人もいる。あまり金持ちには直接会わなかったが貧乏な人には数えきれないほど会った。ぼくはデリーやアーグラーなど数カ所で現地募集の1日バスツァーに参加した。そこでいっしょになったインド人はいろいろなことに興味を持ち話してくる。インドは何回目だ、インドの印象は、何日インドにいる、カメラをみせてくれ、時計をみせてくれ、という具合だ。ぼくは独立50年をどう思うとか聞いてもあんまり回答はない。そしてインドは大国だという意識はあるみたいだ。ぼくが話す人のほとんどは観光業か関連業なので一般の人の話、生活はあまりわからない。 カースト わざわざカーストは何ですかなどと言うおろかな質問はしなかったが、カジュラーホーでのホテルのオーナーや食堂のオーナーはブラーフマンだと言っていた。オートバイにのって来た若者がレモンジュースを買いもしないのに水をくれと言って商売用の水を屋台のレモンジュース屋からもらったりしているのはブラーフマン出身だからできるのではないかと感じた。一方で顔中、覆面をしてゴミ回収している人は低カーストの人ではないかと想像した。観光外国人にはあまり認識できない分野だ。 路上生活者 ムンバイ国際空港から早朝中心部にタクシーでむかったらやけにおおぜいの人が歩道で寝ている。最初は暑いから外で寝ているのかと思ったが身なりなどからうわさに聞く路上生活者だということがわかった。町中に屋台で商売している人がたくさんいる。バナナ売り、チャーイ売り(インド式紅茶)、豆売り、ジュース売りなどさまざまだが、彼らの何割かもその場で寝ている。大都市の公園に面した歩道にシートを屋根のようにはり渡し生活している家族も大勢いた。 乞食 観光施設の入口、交差点、寺院の参道にはほんとうに大勢の乞食がいる。そしてその何割かは身体障害者だ。十分な医療が受けられないためになった人も多いだろう。片足のない人、手が子どもぐらいのおおきさしかない人、手のない人、足が3倍ぐらいにふくらんでいる子ども。ほんとうに悲惨だ。目をむけていられない。最初はいろいろなカンパしたがあまりに多いので5体満足な人にはあげないことにした。インド人になぜこんなに多いのかと言うと逆に日本にはいないのかと質問された。日本も浮浪者がいるがその割合はインドの比ではない。内心では福祉がどんどん切り捨てられているがインド人には「一応、憲法に規定があり、まずしい人には政府からお金が支給される」と答えた。いくらぐらいというので10万円ぐらいだろうと思い「30000ルピーぐらい」と言ったらあぜんとしていた。インドで月収30000ルピーなら御大尽の生活ができるからだろう。物価のちがいがわかってはもらえないだろう。彼からみたら日本は夢の国にみえたかもしれない。 少年労働 ジャイプールで泊まったシャクンタラム・ゲストハウスでは朝、掃除に5才くらいと10才くらいの男の子が働いていた。みやげもの売りも12才や15才くらいからやっていた。たぶん学校には行っていないだろう。なにしろ大勢の男の子が働いている。また女性やましてや女の子は町で働いている人をみない。ウェートレスもいない。女性で働いている人は銀行、放送局、女優といった高学歴の人が働く職場ぐらいだろう。ほとんどの女性は家事ではないだろうか。あとは道路工事でじゃりや土をもっこにのせ、それを頭で担いで運ぶ女性、露店で野菜を売るおばさんぐらいだ。 悪い人 デリーのコンノートプレイスで政府観光局をさがしているとわれこそは観光局の者だという人物が次々とでてきて案内してやろうという。また自らまけることがないはずのオートリクシャの運転手がたった5ルピーでつれていってやろうとしつこくついてきて言う。ついていけば自分の会社かコミッションのもらえるトラベル会社につれていく。地図をみるとここに観光局があるはずなのにない。近くにロイヤル・ネパール航空があることになっているがそれはある。とするとこの建物がそうかと思う。看板にも政府観光局とかいてあるがその下に会社名も書いてある。案内した者はこここそ、まちがいなく政府観光局だという。ぼくはあなたのいうことは信じないといいつつ、位置的にはここなので半信半疑で、はいるが、部屋が2つしかないので政府の機関がこんな小さいわけがないといって出ると「わかった、ほんとうのところに案内する」と行ってすぐ裏手の事務所に行く。そこには政府観光局とだけたしかに書いてある。中に白人女性の客が話しているのでここはまちがいないのかというとそうだと言って旅行の打ち合わせをしている。しかし応対がおかしいので、でた。地図がちがうのか、なんなのかもうさがすのはやめた。後にガイドブックの最新版をみたら、注意がくどくどかいてあったがそんなことを書くぐらいなら正しい位置をしっかり書くべきだ。この界隈ではだれに聞いても真実は教えてくれずカモにしようとするだけだからだ。また後でたくさんの日本人旅行者にいろいろ聞いたがほんとうの政府観光局にたどりつけた人はひとりだけだった。あとはにせものをほんものと思ったり、別の場所につれていかれたりしていた。あの白人女性もにせものをほんものと信じていた。シャタブディ急行にのろうとニューデリー駅に行ったときのこと。顔つきは非常にまじめ誠実そうな男がでてきて「チケットの予約再確認がいる。わたしがやってやろう」という。飛行機の予約再確認は必要だが鉄道も必要なのか、インドではチケットを買うのに氏名、年齢、住所まで書くのだからありえると一瞬思った。おもわずさいふからチケットをだしてそういうことが書いてあるか確認しようとしたがそこで思いとどまった。ぼくは彼に再確認はどこでするのか教えてくれ、と言うと外国人チケット販売所だという。きのうぼくが買ったところだ。そこにいっしょに行くとまだしまっている。当然だ。時刻は朝の5時50分だから、ここで彼が悪人であることがわかった。ホームにもどろうとすると仲間なのかなんなのか変な人物があらわれ、袖にひもでしばったブリキの腕章を指さしおれは駅員だ最初の男のいうことはただしい再確認しろなどと言う。ホームで張りだされた乗客名簿に自分の名前がのっていることを確認するとその男はあなたの名前はありましたか、どこですかと言う。ぼくは当然場所はしめさずあったとだけいうと男は静かに去っていった。あのときあわててチケットをとりだし、さいふの場所を教えたり、ましてやパスポートとチケットを彼にわたしたらどうなっているのだろう。後でその話をすると渡したらパスポートはなくなるし旅行はパーだねと言っていた。別の人はガイドブックに事例がのっていたと言う。ぼくはデリーが旅の10日目だったし、その前に近寄ってきたやつらをさんざんみてきたから、よかったが普通直行便でデリーにはいり、2日か3日目になれていないとき、さて行こうかとおもっているとコロッとだまされる場合もあると感じた。 ガジュラーホーで泊まったホテルは宿泊代が150ルピーにもかかわらずふろ(バスタブ)がついていた。それまで泊まったところはすべてバスルームにはホットシャワーしかなかったから感激した。普通インド人はメンテナンスをしない。こわれたら主機能に関係ないかぎりそのままだ。だから蛍光灯の玉がきれてもそのまま、照明器具がこわれてもそのまま、蛇口がこわれてもそのまま、車のドア把手がこわれてもそのままだ。しかしこのホテルのオーナーは毎年6月に必ず総合点検をして修理するという。ホテルもこのクラスにしては豪華だ。名前がホテル・マーブルパレスといい名前のとおり床はすべて大理石だ。部屋もきれいであった。オーナーは夕日がみれる池に案内したり夕食を食べようと言ったりやたらと親切である。彼がレストランは高いから酒屋で買ってきてここでビールを飲もうと言うので同意して3本かってくるように部下に命じた。金はぼくが200ルピーだした。2本飲んで残りはフロントの冷蔵庫にいれた。翌日、寺院見物に行く予定であったが彼が案内すると言う。なぜそう親切にするのかというと友だちだからだと言う。初めてあった人間を友だちだという人物をぼくは絶対に信じないので案内はことわった。友だちという言葉をカモとおきかえれば正しい認識を得られる。3時に帰ってきて非常につかれてのどもかわいた。きのうのビールが1本のこっているのを思い出し冷蔵庫をあけたら、ない。聞くとここの冷蔵庫は問題があるどうのこうのでオーナーの自宅にあるという。持ってきてくれと言ってもモゴモゴしている。断固主張すると買ってきた。オーナーが夕食を食べようというので行き、終わるとついに始まった。知りあいのカシミール人が10日後に帰る、安いからペルシャじゅんたんを買えという、カシミールはペルシャに近くじゅうたん製作がさかんだという、見るだけていいからと言う。見るだけにしておこう。じゅうたん屋はつぎつぎにじゅうたんをひろげる。いっこうに無関心なので玄関におく小さいものはどうだとまだひろげる、シルクショールはどうだ、シルクパジャマはどうだ、カシミアはどうだ、その間適当に興味のあることだけは質問したが値段は聞かなかった。聞けば買う気があることを示してしまう。ついにあきらめたらしい。ぼくは「見るだけ、ただ」とあなたがいったでしょうと言って出た。オーナーはついに自分の店に案内した。今まで彼がみやげ物店をもっているとは知らなかったが主に宝石を扱う店だ。工場も持っているという。それでわかった。ホテルの設備がやけにこのクラスにしては良く、よく金があるものだと思っていたが宝石でもうけた金を投下してカモになる客を確保しようとしていたのだ。まずインド特産の細密画があったがそれらはシルクに描かれたものだ。本物は紙しかもいいものは昔の紙にかく。シルクのような布では縦糸と横糸の目があり精密な細密画はかけないからだ。これらはすべてだめだというと宝石を出した。それらはスタールピーが1個、サファイアが1個で後はすべてオニックスやラピスラベリーなどの半貴石だ、インドのような砂ぼこりの多いところでよくこんな硬度7以下の石を売るなあ(砂には硬度7の石英の粉があり、7以下の石だと傷だらけになる。貴石は硬度7.5以上のガーネットなど10種類しかない)というと金庫から貴石を出してきた。そして以前に買った人が書いた感想文のノートをみせた。そこにはスタールピーを買って日本の店でみせたら大きくでびっくりされたとか、ラージャさん(オーナーの名前)は親切だったとかいうものだった。そのスタールピーは何カラットかときくと8カラットだという。よくこんなうそがぬけぬけとつけるものだ。もしあるとして8カラットのスタールピーなら日本の女の子が買える値段なわけがない。彼はインド特産というブラックスターという石をさかんに売りたがったが、硬度はいくつだというとついに回答しなかった。もうおしまいと言って店をでて1軒しかない酒屋でビール1本の値段を聞いた55ルピーだという。普通は45から50ルピーだがまあいい。オーナーにきのう買ったビールは55ルピーだから35ルピーのおつりをかえせと言うと彼はここのように1軒しか酒屋のないところは1本70ルピーだという。ぼくは今聞いてきて55ルピーだといっていたぞというと返事がない。明日チェックアウトするまでに用意しておいてくれといってもう10時をまわっていたので寝た。翌朝おつりを返せ、オーナーを呼べといってもきのうまでは足しげく顔をみせたオーナーがまったく来ない。ビール買いの使いにいった部下につりをかえせというとあのビールは酒屋ではなくレストランで買ったという。オーナーはレストランで飲むと高いから酒屋で買ってこようと提案したのだぞ、だいいちレストランの看板にビール1本60ルピーと書いてあると反論。まだぐじゅぐじゅいっているのでぼくはそのとき読んでいた新聞でロビーの机をおもいっきりぶったたいた。その部下はほんとうにとびあがって驚いて、なぐられるのを防衛するポーズをしてさいふから35ルピーだしてかえしてくれた。たかが1本55ルピーのビールでさえ平気で70ルピーだという人物の経営する宝石店がまともな商売をしているはずがない。初日に飛行機の予約にいったときオーナーがつれていってくれた。彼の前でトラベラーズチェックをみせたのがカモにねらわれた第1歩だろう。ホテル受付に「もしラージャがぼくのフライト予約を電話でかってにキャンセルしたら対抗処置をとるぞ」と脅してそこをでた。かれの名刺、自宅の住所など必要なものはすべて手にいれた。いずれにせよこのホテルはガイドブックの推薦名簿からはずすように出版社に投書する。 沐浴と死者の火葬場で有名なバラナシ(日本ではベナレスという名でしられている)にいったとき、ガンガー(ガンジス河のこと、ほんとうの名前)にあるガート(沐浴場のある岸辺、バラナシにはガートが60ほどあるらしい)に向かった。一番有名なダシャーシュワメードガートの手前にある交差点でサイクルリクシャははいれないので降りた。そしてまっすぐ歩こうとすると日本語をはなす若い男がでてきて「ガートはそっちじゃない。教えてやる、ついてこい」と言う。おりるときに方向をまちがえたかと思いついていくと細い路地を際限もなく、くねくね歩く、そのうちたしかにガートに着いた。いろいろ聞いて情報は手にいれたのでわかれようとしたら10ルピーよこせという。なにを言うかってにガイドしたくせにと思ったが7ルピーにまけさせて払った。いろいろなガートに行きダシャーシュワメードガートからサイクルリクシャにのれる交差点まできたら、やはりぼくが最初歩き始めたとおりいけばよかったのだ。彼はわざわざ遠回りさせ、いかにも案内がなければたどりつけないかの印象を与えて金をかせぐチンピラだった。その夜、また彼にあっておまえはうそをついた金をかえせと両肩をつかまえた。(インド人はだいたいぼくより5cm背がひくい。かれは10cm低い)このまま投げ飛ばしてやろうかとおもったがやめた。彼は7ルピーは返す。今手持ちがないのでついてこいと言う。ついていって仲間から袋だたきになるのは目にみえているのでやめた。7ルピー(23円)で命を落としてもしようがない。 シャカが菩提樹の下で覚りを開いた地でもいろいろなやつがいる。ぼくのガイドブックのホテルなんとかの項をみろそこに書いてある日本語ペラペラの善人こそわたしだ。菩提樹のあるマハーボーディー寺院を案内してやる。後でぼくのやっているみやげ物屋にきてくれればそれでいい。ぼくはみやげ物は買わないからけっこうと言うとじゃあ来なくていいから案内してやると言う。ぼくは10ルピーだけ払うからそれでよければ案内してくれというと彼は日本人からもらった名刺を何枚かだしてぼくを信じてくれと、金めあてではない事を強調する。ついてくるので適当に質問し、教えてもらいながらその菩提樹のところに来た。この木は4代目か5代目の菩提樹だということだ。瞑想する僧侶がいる。ぼくは内心シャカと同じところで瞑想すれば覚りがひらけるわけじゃないと思った。そのうち善人の案内人は看守から退去を命じられたのにでていかないので口論になった。その口論が一段落してぼくのところにもどってきたがぼくは「あなたは問題をたくさんもっているようだ。ついてくるな」と言ってことわった。ただで説明してもらってよかった。 インドのみならずいろいろな国で日本人は気の弱い、おしとよしのカモネギだと思われているのでほんとうにだまそうとするやつが多くてこまる。 おしゃれ インド人はほんとうにはでずきでおしゃれだ。女性は左鼻に穴をあけリングをしている。ただテレビのアナウンサーや女優はほとんどしていないので将来へってくるかもしれない。手に指輪をしているのはもちろん、足の人さし指に指輪をしている。なかには足の中指や薬指までしている。歩きにくいのではないだろうか。そのうえ両手にブレスレットを数本ずつつけ、足首にもアンクレットをつけている。女性は子どものときは非常にはでな洋服をきている。しかし結婚するとみんなサリーにするようだ。洋服の女性は1度もみなかった。 食事 インドのカレーは辛くない。昔スリランカで火がでるほど辛い料理ばかりたべてきたが、それより辛くない。だいたい料理には香辛料がたっぷり使ってあって辛いがほどほどの辛さだ。メニューをみてもほとんどそれがどういう料理かわからないので適当にたのむ。ベジタリアンとノンベジタリアンにわかれていてベジタリアンは日本では菜食主義者といわれているがインドでは宗教上でベジタリアン(ベジと略す)とノンベジタリアン(ノンベジと略す)にわかれていて思想上ではない。ベジが人口の70%いると言っていた。インド人にあなたはどっちだと聞かれたがノンベジだ。日本はほぼ100%ノンベジだ。そもそもそういう区別をしていない。ノンベジが当たり前でほんの1部の人が菜食のみにしているだけだというと彼は理解できないでいた。レストランもベジ、ノンベジと専用化しているところもあるがたいていは兼用だ。よくカーストの上の人がベジで下はノンベジだといわれるがかなりの人がベジだった。しかもブラーフマン階級のベジでもときどき肉を食べている人もいる。インド人は手でたべるときほんとうに右手だけでたべていた。パン(ロティ、チャパティ、ナンと種類がある)をちぎるときでも左手で押さえないで右手だけで食べる。ぼくはパサパサのごはんにシャビシャビのカレーをかけて食べる気がどうしてもしなかったのでカレーとナンとかいう組み合わせ(日本にあるインド料理屋がやるパターン)でたべたり、ピラフの元祖といわれているプラウや焼き飯風のビリヤーニを食べた。ぼくは胃腸が弱いので4日に1度は下痢をしていたのでそういうときは屋台で買ったバナナを2本食べるだけという場合も多かった。(バナナは皮という天然パッケージにはいっているので安全な気がした。)その他、どこの国に行ってもある中華料理も食べた。しかし麺はやきそばしかなくスープヌードルというとほんとうにスープのなかに麺が少し浮かんでいるだけでラーメン的なものはなかった。レストランというのは大都市にある高級なところをのぞいて庶民がいくところは信じられないぐらいきたない。よくこんなにあかだらけのようなテーブル、イスを使うなと思う。グラスに水をいれてもってきてくれるが指を必ず中にいれてもってくるのでまいる。水差しをおいておく店もあるがおかないところはひとりにグラス2杯か3杯もってくるが指を突っ込んではこんでくる。みんな食事前と後には必ず手を洗うのになぜウェイターはああなのだろう。 酒 基本的に酒は飲む雰囲気にない国だ。イスラムは禁止だしヒンズーもそれに近い。地域によって対応が非常にちがう。ムンパイでは看板にバー&レストランとでている。しかし表通りに面したところで飲んでいる人はひとりもいない。奥まったついたてでしきられたエリアで飲んでいる。アウランガーバードではバーの看板はない。レストランに小さくパーミットルーム(許可室)と書いてある。これは酒を提供することが許可されていることかバーかと聞くとそうだと答えた。デリーではいろいろなレストランでバー&レストランという看板のバーのところだけが後から消されていた。バラナシは非常にきびしいところだそうだがぼくが泊まっていた州営のツーリストバンガーローには非常に奥まったところにバー&レストランがあり、晩飯を食べにいったらみんな飲んでいる人ばかりだった。そこでぼくも飲んでしまった。ビールは酒屋で平均50ルピーで売られている。普通の搾りたてジュースが3ルピー。コーラ類は10ルピーでジュースの3倍でたいへん高いがビールはそのまた5倍だからいかに高いかわかる。1ルピーの実効価値が50円から150円ぐらいと感じたが50円としても日本の感覚ではビール1本2500円になる。レストランならなお高い。2人で1本,5人で4本というようにほとんどのインド人はビールを1本以下しか飲まないが経済的なことと罪悪感からかもしれない。ぼくは腹をこわすと胃を消毒する必要からビールを飲んだが全体で5回飲んだだけだ。 ホテル ぼくはだいたい100から200ルピーのホテルにシングルルームで泊まった。大都市は高くて600ルピーぐらいだ。ガイドブックでは安宿情報として紹介してあるが日本人の感覚からすれば設備の点でも値段の点でも安宿にはちがいない。しかしインドの庶民からすれば大名旅行に近いのではないか。簡易ベッドだけの宿泊所を何度かみたし、それがどういう理由からであれ駅前広場で寝ている大勢の人たちからみたら贅沢といえる。ぼくはこのホテルでもバスタブがないとか、便所とシャワーが近すぎていやだとかで、あまり気にいるところはなかった。インド式の便所は基本的には和式と同じである。シャワーがちかすぎるところでせっけんで体を洗っているとき、つるりとせっけんを落とすことがある。石鹸はそのままつるつるすべり、運わるく便器の中にころがりこんでそれでおしまいとなってしまった。それ以来、便所とシャワーが近すぎるホテルは敬遠した。ところが日本人でも若い人の中にはドミトリーベッドといってベッドのみで便所、シャワーは共同という超安宿にこのんで泊まる人がいる。シングルルームの設備でも不満のあるぼくからすれば共同便所シャワーというのはちょっと考えられない。荷物の安全性からもためらう。途中で知りあった46才の日本人旅行者もドミトリーは勘弁してくれと言っていた。これは年齢による適応力の違いかと考えさせられた。ぼくも20代にはユースホステルでドミトリーの旅を何度もしたがなんとも思わなかった。もちろん日本国内のユースホステルとインドのドミトリーではだいぶ違いはあるだろうがそのころはダイレクトにいろいろな人と話し合ったり、旅の情報を交換できたりしてそのほうが楽しかった。だいたい日本で朝シャンだと言っている女の子がインドのホテルによく泊まって旅ができるのが不思議でしかたがない。しかしあんまり気にしている人はいなかった。ぼくのような短期の旅行でなく2カ月、3カ月、半年という旅行でよく旅を続けていけるものだと感心した。ぼくはカジュラーホーでぬるい湯のふろにはいれたが後もあったかいふろにはいりたい欲望にかられた。ボードガヤでは政府系のアショーク・ホテルというインドでの高級ホテルに泊りその夢をかなえたが宿泊料は1200ルピーと1週間分の宿泊料を1泊で払った。最後のカルカッタでもいいホテルがなく知りあった日本人と2時間かけてホテルをいろいろチェックしてイギリス人のマダムが経営するホテルに泊まった。イギリス人ならメンテナンスに対する考えもよいだろうと考えたからだ。ホテルのふん囲気はよく部屋もきれいであったがバスルームの照明がつかない。文句をいったら修理にきたがなおせない、そしてそのままとなってしまった。ふろの湯もボイラーで給湯していたが使用時間が重なると水しか出ない。これでアショーク・ホテルより高いのだからまいった。ここでぼくは熱をだし、水まくらをかしてくれと言ったが持ち合わせていない。体温計ももちろんない。やはりインドのホテルだ。この値段ならもう少し出せば高級ホテルに泊まれる。ひどいホテルだった。レストランの給仕の服装やサービスのしかたはイギリス植民地時代のようで独立50周年の今日では場違いもはなはだしい。 電話 ぼくはインドで現金やトラベラーズチェックを失う可能性から2重3重に防護対策をしていた。シティバンクに口座をもち引きだせるようにもしていた。しかしシティバンクはインドの国際電話回線はすこぶる悪くオンラインはできないかもしれないと言っていた。しかし実際にはどこからでも国際電話は確実にかかった。インドではまだ各家庭に電話が普及はしていないので電話屋がある。STD.ISD.PCOと看板が書いてある。このうちISDが国際電話だ。ぼくは家には5日に1度ぐらい生きている証拠の電話をかけたが、ダイアル直通ですぐにかかった。 店 インドの資本規模はきわめて小さい。屋台の店がものすごくあり、食べ物だとだいたい油であげたものを売っている。ほとんどが単品で、この屋台はあまいレンコンの輪切りのようなお菓子、べつの屋台は野菜のてんぷら、それ以外にはサムーサーというじゃがいものはいったあげもの、バナナ売り、りんご売り、その場でフルーツをしぼってくれるオレンジジュース屋、パイナップルジュース屋、さとうきびジュース屋、チャーイというインド風紅茶屋。非常に零細だ。ラジオ、カメラを売る屋台もあるがこれは相当資本がいるだろう。官庁の前ではゼロックスを1台か2台もつコピー屋台が数軒ある。建物にみせを持っている商人でも1間幅の店で屋台より種類は多いが小規模だ。タイプライターひとつのタイプ業があり、屋外で鏡を木につるしたり、塀にかけただけの床屋やミシン1台で商売している人など、信じられない商売ばかりだ。屋台のほか露店では体重計ひとつで商売している人がいて、体重をはかる料金が1ルピーだ。これでは1日に100ルピーはとてもかせげないだろう。結局、インドでは雇用状況が悪く、みんななんとか、かせごうと工夫して屋台をしているのだと思う。そしてたぶん屋台も親方がいて借り賃を払うのだろう。これら屋台は歩道を占拠している。そのため歩行者はたいてい車道を歩く。そこら辺の取り締まりはどうなっているのだろうか。 銀行 ぼくがバラナシでトラベラーズ・チェックからルピーに両替しに行ったら、ステートバンク オブ インディアでないとやらないと言われリクシャで走っていった。2時半に店にはいり、頼むとできないと言う、職員は談笑していてなんにもしていない。よく聞くと、もう営業時間はすんでいるとのこと。営業時間は10時から14時までたった4時間。3時まではやっていると思い込んでいたのがまちがいだった。銀行の預金利子が書いてあったが信じられないくらいいい。1カ月から3カ月が4.5%。3カ月から6カ月が5.5%と続き、3年以上はなんと12.5%だ。どこかの国のように銀行救済のため国民の利子をかすめとっていくようなことはしていない。物価上昇がはげしいのか、その日ぐらしの人が多く預金獲得がむずかしいからか、理由はわからない。 インドの町なみ イギリスがゼロから作ったムンバイやカルカッタはだいたい区画整理された町並みばかりだがたとえばデリーのように新市街としてニューデリーがあるように主要都市にはカントンメントという今では新市街になっているところがある。これは昔イギリスが軍の駐屯地として作った区画整理された町だ。道も広く歩道もある。しかしどこの町でもそういう歩道に屋台があり、1部にはどうみてもかってに歩道の上に家を作ったとしか思えない建物がある。歩道の舗装もれんがばりや、コンクリート、コンクリートタイル敷きといろいろあるがこわれたところはこわれたまま、中にはなにかの埋設工事をしてろくろくうめもどさず、不完全復旧のところもある。インドの都市は徐々に崩壊しているのではないかという印象をもつ。大都市の高層ビルにしても外見からみてもその劣化はひどい。ガイドブックに出来立てのホテルに泊り、インドにはない清潔なホテルだと思い、2年後にまた行ったら、見るもむざんなかわりようだったと書いてある。暑い気候のせいか、その気候風土からできたインド人の考え方のせいか、ほとんにボロく、こわれたままのものをいたるところで見た。50年は無理としても10年20年後に行ってどうなっているのか。 洗濯 どこに行っても日中は30度をこえ天気予報では最高予想は33度,34度とでていた。日影にはいるとたいへんすずしいのだが、汗はでる、その汗で湿った服でバスやオートリクシャの座席にすわると座席のほこりをふきとるかっこうになり服はすぐ汚れる。洗濯は2日に1回以上したが、翌日にはすぐよごれるのでいやになる。しかも相当にきたなくよごれる。長期の旅行者は1カ所に滞在する日数が多いのでまとめて洗えばいいがぼくのように1カ所平均2日だと到着した日には必ず洗濯をしておかないとだめだ。 日本人旅行者 あちこちに日本人旅行者がいる。大部分は20代で、2カ月,3カ月,半年というぐあいの長期旅行者だ。同じ人にデリーであってからバラナシであったり、1日遅れで同じコースを旅している人などにあった。各所で会って話をするのはユースホステルのときのようで楽しい。若い人はほぼ100%英語をはなせるが、まったく話せない人にも2人あった。1人はオートリクシャにのっても食堂にはいっても値段がわからないので見当をつけた金額より多い札をだし、向こうのだすままのおつりをもらい旅行していた。そうとういいカモになっていることだろう。彼はいちいち日本円に換算してみて日本より安いからいいという感覚でいた。もう1人は近よってくる日本語の話せるインド人でまあまあという人に解説、案内をしてもらいながら旅していた。日本でのインドパッケージツァーがデリー、アーグラー、ジャイプールというコースしかないのでタージ・マハル以外でパック旅行者にはあわなかった。女性の旅行者が一様にいうことに痴漢がある。サリーやロングドレスならしないがジーパン姿だとインド人からお尻をさわられるという。町の中ですっとすれちがった拍子にさわられたり、行列しているときになぜられるとこぼしていた。バラナシからネパールに行くバスの中でずっーと後ろの座席の男から腕をちょびちょびさわられたという女性もいた。1日バスツァーに参加して同乗インド男性から侮蔑的あつかいを何回か受け、もうやめたという人もいた。戒律のきびしいインドの風土での異教徒である日本女性に対するずうずうしさと女性軽視のあらわれだろう。男性であるぼくはバスツァーで1度も不愉快な思いはしていない。女性はたいへんだ。 ジャイプールで日本から細密画の修業にきている日本人女性に会った。ほんとうに修業にきているのかはさだかではないが細密画についていろいろ教えてくれた。
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