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イタリア2000年6月13日から6月25日 2000年はキリスト教にとって大聖年になります。観光客は例年の3倍になるのではないかとうわさされ、キリスト教徒でもない者が行って大丈夫かと思ったが、そういう記念すべき年に行くのがおもしろいと思い行った。ローマとフィレンツェに行って後は現地でどこに行くか考えようという気持ちだったがフィレンツェからピサが近いのでピサに行き、それならとベネツィアにも出かけた。ベネツィアは通常の陸地の都市とは非常に異なりいっぺんで好きになった。イタリアには世界の文化遺産の40%があるといわれてるが欧米的価値観と金銭換算の結果だろうとは思っていた。しかしたしかにあるはあるは永遠の都といわれるローマでよくこれだけあるなと思い、フィレンツェ、ベネツィアでもたくさん見た。こういっては失礼だがたいしたこともない教会に世界的に有名な画家の絵画がかけてあったりしてびっくりした。この旅行では学校の教科書にのっていた絵画や建築などの本物を実際に見たという気持ちを強く持った。 ひとりで旅行すると初めて行く外国で言葉もままならない中、翌日やその先の予定を考えながらツアーや列車の予約、航空券のリコンファームをしつつ見学や移動をしなければならない。さらに移動するとまず最初にその日に泊まるホテルをさがす、荷物をおろすということでほんとうに骨がおれる。 もっと日数があれば少なくともミラノとナポリにも行きたかったが残念だ。今回は4都市のみとなった。 ガイドブックには治安が悪いとかスリや親切どろぼうが横行していると書いてあったがぼくはそれらしき人には会わなかった。主要な観光スポット、トレビの泉やポポロ広場、コロッセオなどにはパトカーとかオートバイにのった警官がおり警戒していた。夜も夕食に時間がかかりたいてい11時ぐらいになるがあぶない目にはあわなかった。ただ日中トレビ近くの交差点で地図を片手にここはどこだと聞く人がいたがあきらかに外国人であるぼくに聞くこと自体がおかしいと後で気づいた。そのときは地図ですぐに現在地を確認して地図の方向を実際に立っている方向に向け、ここだと説明したのできっかけがつかめなかったのかも知れない。また夜7時ごろバルベリーニ広場で横断歩道の信号待ちしているとローマに出張で仕事に来ている。仕事がはやく終わったので観光している。いっしょにビールを飲もうという男に誘われた。ぼくのへたな英語に対して英語がうまいおまえはアメリカ人かとまさにとろいことを言う。ビールは断わると行く方向がいっしょだからとついてきてここだ、はいろうと言うが断わってわかれた。たぶんあれがキャッチバーのたぐいで法外な料金をふんだくるところだろうと思う。ローマでもっともエレガントな通りといわれるヴェネト通りの突き当たりであるバルベリーニ広場でカモを狙う犯罪者だ。 ローマ おそらく法律で高層の現代的ビルの建設はできないようになっているのだろう。スペイン階段の上からながめると高い建物はサンピエトロ寺院ぐらいしか見えない。 初日テルミニ駅について日本からFAXで予約したホテルに行った。(予約したのはここだけ、昨年フランスでホテルを確保するのに苦労したので予約した。)荷物をおいてから昼食を食べに行った。ピザ屋でピザとコーラをたのんで食べていると警官が2人入ってきてピザとビールをたのんで食べた。職務中の警官がビールを飲んでいいなら遊びで来ている旅行者のぼくはなんのはばかることがあろうかと考え直し、飲むことにした。さらに翌朝バールでサンドイッチとミルクの朝食をとろうとした。英語でミルクと言ったが店員のおじさんは了解したようでサイズを聞かれた。イタリア語でグランデ、ピッコロと言われたか英語でビッグ、スモールと聞かれたかは忘れたがビッグサイズを選んだ。出てきたのは非常にビッグサイズのグラスにはいったビールだった。ことわろうかとも思ったがもめるかもしれないしせっかく出てきたビールがもったいないのでそのまま飲んだ。翌日から飲酒の日は朝食からビールなどを飲むことにした。 ローマですばらしいのは広場とそこにある噴水で噴水は枯れ噴水ではなく、どこもなみなみと水をだしていた。(フィレンツェ、ベネツィアなどは枯れ噴水だった。)最初にいったのはトレビの泉でここでジェラートをたべながら見た。そこから日本人の女の子が歩いて別の方面に行くのでなにかあるのかとついていったらスペイン広場にでた。映画「ローマの休日」でのシーンを思い出した。しかしここではジェラートは食べなかった。噴水はもっか修復中で観光シーズンには水が流れるのだろう。キャミソールの女の子が作業員で修復していたが、他のところでもやはりキャミソールで工事しているのを見た。鉄道でも保線作業をしているおっさんがショートパンツだけで上半身はだかでヘルメットなしで作業している。いくら自己責任だとはいっても、こんな安全対策でいいのだろうか。ぼくも以前は長年、建築関連業界にいたが真夏でも長袖、長スボン、ヘルメットに安全帯とそれだけで汗だくだくとなるスタイルだった。ぼくもキャミソールの女の子と仕事ができたらよかった。 エジプトから持ってきたオベリスクが主要な広場には建っており、ローマ帝国時代に持ってきたのではないかと思った。広場でいちばん気に入ったのは帝国時代競技場だったというナヴォーナ広場で3つの噴水があり、大道芸人や物売りが大勢おり、観光客もあふれていた。特に絵描きが多く似顔絵描きから風景をかきあげた絵を売る人、映画俳優のポートレート画を売る人などが10数人はいた。広場を囲んでたくさんのレストランがありナポリ民謡を歌う芸人が巡り歩いていた。滞在中テルミニ駅近くのホテルからはかなりあるが何度かここまで夕食を食べにきた。広場からはなれた路地にもレストランがたくさんあった。(食い逃げされたレストランもありウェイターが怒っていた。)路地は石畳だが(ローマの石畳の石はアスファルトでよごれたのかタイヤのゴムがついているのかわからないが真っ黒なものばかりだった。)まわりの建物も古くきたなくこれで牛が散歩していたらインドの町と錯覚するほどだ。 ローマについて昼食を食べてからすぐサン・ピエトロ寺院に行った。サン・ピエトロ広場で法王のミサがあったらしく、着いたときには椅子を片付けていた。もう少しはやく着いていれはどういうものか見ることができたのに残念だった。聖年にしか使用しないというドアから寺院にはいった。今度は中でミサがあるらしく法王ではなかったが枢機卿かだれかがはじめた。終わるとみんなまわりにいる人と握手をするということを初めて知った。 フィレンツェ (夜毎繰り広げられるフィレンツェの火の大道芸。レプッブリカ広場横の道路。結局3夜、毎晩みてしまった。) ルネサンスはこの町からはじまったともいえる。レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロもここから世に出た。非常に観光客が多く、ウフィツィ美術館やアカデミア美術館も行列待ちしないとはいれない。サンマルコ美術館では教科書にも出てくるフラ・アンジェリコの「受胎告知」の絵や各部屋にキリスト磔刑の絵などが描かれていた。 ベッキオ橋、ベッキオ宮殿、リッカルディ宮殿、ピッティ宮殿とその中のパラティーナ美術館も見た。よくもよくもこんなにたくさん歴史的建物とその中にある美術品があるものだ。 サンタマリア・ノベェッラ教会前のサンタマリア・ノベェッラ広場に夕方寝そべっていたらインド人がどんどん、どんどん集まってきてびっくりした。近くにはインド雑貨の店もあり、出稼ぎなのか移民なのかわからないが相当な人数のインド人がここにはいる。日中はみかけなかったし、気にとまることがなかった。いったいどこにこの人数のインド人がいたのだろうか。 フィレンツェのドゥオーモ(サンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂) 巨大な聖堂で全体をドゥオーモというらしいが日本語(もとは英語)でドームという部分をイタリア語でクーポラという。それをイギリス人がクーポラをおもにドームと呼んでドゥオーモが別の意味でドームという英語になってしまったらしい。そのクーポラに登った。フィレンツェは建物の高さ制限をしているのだろう。このクーポラより高い建物はなかった。クーポラの外面には無数の落書きがしてあり、日本語の落書きもかなりあった。文化財にいたずらすることは許せないが特に外国に来てまで落書きするとはどういう人間だろう。しかも新婚旅行で来て記念に落書きしたと思われるものがかなりある。 ピサ ピサの斜塔のある寺院は塔だけでなく、洗礼堂や大聖堂もそれぞれ傾いている。地盤の悪いところに建設したのだ。ぼくが行ったころ斜塔はワイヤーでこれ以上傾かないようにしてから基盤に無数の穴をあけて地盤強化と傾きすぎの補正工事をしていた。フィレンツェから列車で40分ぐらいで来ることができた。 ピサの斜塔 映画「ローマの休日」でも出てきた真実の口。チルコ・マッシモというローマ時代の競技場の近くにある。 サンジョバンニ・イン・ラテラーノ教会。この後、法王のミサがあるため参道が化粧されている。法王のミサは全体で3時間ほど続いた。 ベネツィア フィレンツェからピサに鉄道で行ったら案外簡単だったので、この際だとばかりに、ユーロスター(特急)を予約して水の都と呼ばれるベネツィアに行った。行って見ていっぺんで好きになってしまう町。いたるところにある運河と迷路のような小道。壮大な建物からあるれるほどある美術品絵画。駅ですぐに案内所でホテルを予約した。こういうところから予約しないと断られる率が高いからだ。ヴァポレットと呼ばれる水上バスに乗ってサンマルコ広場に着く。そこから迷路のような道を右へ左へ歩く。まったく歩行者しか行けない幅も広くて3m狭いと1.5mぐらいではないか。途中にはベネツィア名物カーニバルの仮面を売る店やガラス細工の店がある。ホテルのチェックインをしてサンマルコ広場にもどった。クラシックの楽団が演奏する音楽レストランが400席ほどもあるカフェテラスで4件ほど営業していた。それぞれ競争で演奏しており観光客はあちらで聞いていて終わるとこちらに移動というふうで立ち見で演奏を聞いている。翌日、着席して聞いたがその飲み物1杯でも料金の高いこと高いこと、そのうえ演奏料も請求されている。立ち見が一番かしこい。 ベネツィアはかつては外に向かっては帝国主義的侵略をして領土をひろげたが1000年も続いた共和国だ。アドリア海の女王とよばれ栄えた都市だ。 ここにもアカデミア美術館というものがあり、テープレコーダー式のオーディオガイドを借りた。一番感動したのはヴェロネーゼの「レビ家の饗宴」という絵だ。宗教裁判にかけられたというものだ。ルーブルの「カナの婚宴」と同様のテーマを扱っている。ドッカーレ宮殿では日本語のデジタルオーディオガイドを使用した。その説明によるとベネツィアの総督の選挙というものの複雑さが述べられていた。あまりに複雑なので忘れたが、最初に子どもを数人えらんでその子たちがくじをして選挙人かを選出する。それから選ばれた人たちがさらに別の人たちを選出し、それがさらに次の段階の人たちを選ぶ、そういうことを10回ぐらい繰り返して選挙されるという。ギリシア以来ローマ以後専制を排除するためさまざまな工夫をしたようだ。ベネツィアには各所にティツィアーノやティントレットの絵があふれている。市内をふらーりと歩いていると教会があり、名前を聞くとフラーリ教会だという。ガイドブックを見るとたしかにある。聖母マリアの被昇天の絵がある。 ページトップに戻る
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