ケアンズ
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       オーストラリア・ケアンズの記録

  1989年12月25日から1990年1月1日までオーストラリアのケアンズを中心としたエリアにダイビングをメインに旅行をした。そのときの記録である。

 1 気候

 ぼくがいったのは南半球では夏の季節でケアンズではテレビで最高気温が32℃、最低が24℃といっていたが、さして暑くはない。そして冬があたたかいらしい。

 人々の服装は男はみんな半ズボンであった。これは地元の航空会社のパイロットやホテルの職員でもそうだったから一般にそれで通用するみたいだ。女性はもっと短い短パンである。あるいはミニスカートか水着のうえにショートパンツだ。

 ぼくはスーツをきてケアンズについたので現地の人に仕事のかえりについでにきたんですかとあきれられたが最後のニューイヤーイブのパーティにはみんなスーツとか普通のズボンとかはいて出席していて、半ズボンなどはただのひとりもいなく、ぼくは最初いつものとおり半ズボンでいったがそれをみて、へやにひきかえしてスーツに着替えた。スーツがないためのはじをかかずよかった。

 ガイドブックにはクィーンズランドにはサマータイムはないと買いてあったが実際には実施しており、通常より1時間はやい。最初、それをわすれていたので午後7時になっても日中とおなじように明るく8時半ごろ日がくれるのでここで暮らせばハーバーも近いし、仕事がおわってからも十分ヨットやダイブができると1人で想像して喜んだ。クィーンズランドと日本の時差は普通は1時間、サマータイムでは2時間である。しかし他の州ではちがう。

 2 道路

 ケアンズの市街のなかでも信号機は中心部と幹線道路にかぞえるほどしかなく。市街をはずれるともう走りほうだいというかんじ。最高速度も一般道路で100キロ、みんなもっとだしていた。正面衝突防止のために日中でもヘッドライトをつけている車もときどきみかけた。道路はおおむね直線で道幅は郊外では舗装部分が6m両サイドの未舗装の部分があわせて6mぐらいであった。ケアンズ市内はすべての道路が20mはあり、中心部以外は真ん中の6mのみ舗装してあり、あとは芝生になっていた。

 イギリス系の国なので日本と同じ左側通行だ。車検がないのでけっこうボロい車もはしっている。この暑さなのにクーラーのない車もけっこう多い。これも車検のないことから買い替えが少ないことが原因のひとつなんだろう。

 3 ケアンズ

 ケアンズのあるのはオーストラリアの北にあるクィーンズランド州でクィーンズランドは面積170万km2 、日本の4.6倍あり人口は240万人ぐらい。半分の120万人は州都のブリスベーンにすんでいる。ケアンズはブリスベーンから1800km北にある。ちなみにオーストラリアは面積で日本の21倍、人口1650万人。世界で2番目ぐらいに都市化のすすんだ国で7つの都市で人口の60%がすんでいる。ケアンズは人口7万人ぐらいの市であるが道路はすべて20mぐらいあり1ブロックは約50×100mの長方形になった計画都市で非常にゆったりしたかんじだ。国際空港もある国際観光都市になりつつあり、なんといっても延長2000kmにおよぶ世界最大のサンゴ礁グレートバリアリーフの玄関口の町である。ダイビングショップも市内のあちこちにみうけられる。ぼくもこのグレートバリアリーフでスキューバダイビングをすることを主目的にここにきた。ヒルトンインターナショナル、パークロイヤル、フォーシーズンズ、パシフィックなど高層大型ホテルだけでも10以上あり、その他にもモーテル、バックパッカーズなどがたくさんあった。また休暇用アパートもかなりあった。ホテル以外には高層の建物はなく、ほとんどは2階建てだ。そしてそれらは大きな厚いブロック作り、屋根はトタンが大部分だ。しかし家は当然、日本より大きい。敷地も広い。

 商店街はシティプレイスと呼ばれる市内中心を核にひろがっているがほとんどはアーケードとよばれる1ブロックの両端をむすぶ50×10mぐらいの建物にはいっている。そのなかには衣料、本屋、床屋、ファーストフードショップがテナントとしてはいっている。食料品だけはスーパーマーケットで売っていた。

 なお、オーストラリアの通貨はオーストラリアドルで1ドルは約114円だ。(1990年)

 4 たべもの

 海に近いということもあってシーフードが名物であった。ぼくもホテルでいままでみたこともないえびやかにをいっぱいたべた。はさみだけでもかなりでかいかにや三葉虫のようなかにとえびのあいのこのようなものもいた。ふしぎなのは南半球のここは夏なのにかきがいっぱいあったことだ。あたらないか心配だったが、日本なら酢がきにするところをドレッシングをかけてやまほどたべた。特にニューイヤーイブのパーティーのときはすごくてブュッフェ形式で食べ放題だからフィンガーボールを2度かえてもらうほどがんばってしまった。しかし白人の迫力のほうがまだすごかった。

 牛肉はここでは非常に安いたべものでリゾートでランチというとたいていバーベキューだった。しかしぼくはやはり日頃食べ慣れていないのでいくらワインをのみながらでもくどくなりせいぜい2きれぐらいだった。ワインといえばオーストラリアはこれが非常に安い国で並級のものだと4リットルで8ドルということだ。ぼくの泊まったホテルは地元のワインしかおいてなかったが1番高いものでも19ドル。おもしろいのはワインテストのときで日本ならけっこうですとかOKというところをラブリー(Lovely)というのである。このホテルでウェートレスがワインサービスをしてくれたとき、ラブリーなどというとちょっとかんちがいされるのではないかときおくれして低音でいおうか、さりげなく高い声でいおうか考えてしまった。なおかつおどろいたのはシャンパンや白ワインはソーにいれてサービスするのにいくら室温でといわれていても室温が夜でも26〜28℃あるこの地でまったくひやしていない赤ワインを室温でだすことだ。

 ぼくはブルーコーラルリーフ(青いサンゴ礁)とかシャイニーリプル(輝くさざなみ)とかサンゴ礁のあるところでぜひぜひ飲んでみたいカクテルがありウェイターにたのんでみたがまったくレシピを知らなくてダメであった。こんなカクテルをのみながら海をみたらさぞ優雅な気分になれたのに残念であった。

 オーストラリア人はたいへんビールがすきでこの国のビールにはXXXX(フォーXと読む)とかFOSTER’S LAGERとかが有名である。値段も1ドルぐらいでコーラと同じだ。店ではカンでもびんでも発泡スチロールの保温筒につっこみなまぬるくならないようにして出してくれる。ダイビング船にのっているときのどがかわいてかわいてしょうがなかったので冷蔵庫にいってみるといつものコーラやオレンジジュースがひとカンもなくこのFOSTERがあった。XXXXのほうはOur BeerとかいてあるのでビールだとはわかったのでとらなかったがこちらはFOSTER’S LAGERとかいてあるだけでアルコールのパーセント表示もないのでてっきりジュースだとおもってしまった。後でいわれてみればラガーとかいてあればラガービールのことだと考えがおよばなければならなかった。リングプルをあけてからビールとわかったが、せっかくあけたんだから飲んでしまおうと考え飲んでしまった。ダイブマスターにみつからなければ次のダイブまで3時間あるのでいいだろうとおもったのだ。ところが他の乗組員にみつかり、ダイブマスターがとんできておまえはきょうはもうダイブはしてはいけないと宣告されてしまった。

 ダイビングが終わった日に日本人は日本食レストランに集まろうというので一応行った。オーストラリアまできてわざわざ日本食レストランなどにはいきたくなかったが、行ってみると案の定日本人ばっかり、こいつらアホじゃないのかと思いつつ自分もここにいるのでしょうがないなと思った。しかしこれが世界で批判をうける日本人は日本人同士で集まって閉ループを作るという現象の一端なんだろう。この日本食レスストランはさくらという名前でほかにも山とかふじとかしまというレストランがあるらしい。他は知らないがここはやたら高くておいしくない。外国にきてこのような日本食をたべるのは愚の骨頂だ。

 5 ダイビング

 前半は本命のスキューバダイビングを3日間あわせて9ダイブした。ニムロッド2号というカタマラン艇(双胴船)にのってつぎつぎとダイビングスポットをかえながら北上していき最後はかじきのトローリングで有名なリザード島にいき、そこから飛行機でケアンズにもどった。

 クックタウンの港から出航したらいきなり波がつよく、ぼくはおもいっきり船酔いしてしまった。したたかにはいたが胃液しかでてこない。あげくには腸液らしきものまでもどした。よくよくおもいかえしてみればきょうは朝からなにも食べていない。カンタス航空で朝4時ごろ軽いものを食べただけだ。そのうえカンタスのなかではおもしろい映画をやっていたので1時間もねていない。そのうえよくよくかんがえたら前日はX’masパーティーの2次会のディスコで朝の3時までおどりくるっていた。これでは体調が最低なのは当然だ。なぜあんなことをしたのだろう。

 このままでは17キロもあるダイビング機材をはるばる6000kmもかついできたあげく船酔いでダイビングできませんでしたということになるかもしれないと、はきながらかんがえた。

 3時になり最初のダイブをした。海のなかでまた気持ちが悪くなったらどうしようとも思ったがエントリーした。初めてはいるサンゴ礁の海はいろとりどりのサンゴとさかなでいっぱいだ。特にさかなはばつぐんにきれいでブルーのからだが泳ぐときらりとひかったり、むれをなしてすぐ目の前をよこぎっていったり、尾っぽだけ黄色のや、4本の黄色いラインのはいったもの、オレンジのあざやかなものといっぱいだ。大きさも2〜3cmのかわいいアネモネフィッシュ、4cmぐらいのブルーやレッド、オレンジのたてじま、たてもようの各種エンゼルフィッシュ、もう少し大きいコーラルフィッシュ、おちょぼぐちのバタフライフィッシュ。グリーンに輝くべらのなかまや全身まっきいろやまっくろのたいのなかまがいた。ここではハゼのなかまでさえファッショナブルで日本なら底のどろのなかでどろいろをしているだろうがこの海では透明にちかい体にブルーの細いラインがはいっている。船酔いのことなどわすれてしまった。

 たちまちエアーがなくなりエキジットしたら、船がゆれており酔っていることを思い出した。その後十分昼寝をしておきたら、船酔いはなおっていた。夕方移動して、またダイブしてから夕食になったが完全になおっており、十分食欲はあった。まったく日中の絶望的気分は自分のこととはおもわれないほど気分はうきうきしてきた。

 ここではサマータイムを実施しているので日が暮れるのが8時半ぐらいになる。したがってナイトダイブは夜9時ごろにはじめる。ダイブマスターはぼくにナイトダイビングは体の調子がよくないからきょうは休んでいろというのでやめた。

 翌日はまた移動してダイブした。ここではジャイアント・ポテト・コッドを1匹みた。80cmぐらいのやつだ。明日いくコッドホールには1mから1.5mぐらいのでかいのがいるはずだ。そのほかに銀色に輝くバラクーダ、人間の心臓のかたちをしたいそぎんちゃく。赤や黄色、ブルーサンゴそしてシャコ貝。ぼくはいままでまんがでシャコ貝が横に殻をあけて獲物がくるとぱっくり食べてしまうのをみていたのでてっきりそれが真実だと思っていた。しかし事実はちがうシャコ貝はサンゴの間にからだ本体をかくし真上にむかって殻の口をあけているのだ。ここでみた貝は2匹いたがいずれも80cm以上ありこんなのにくわえられたら、もがいているうちにエアーぎれで死んでしまう。最初ぼくはシャコ貝に気がつかずバディがなにかつついているのでみてみたらそれがシャコ貝だとわかるまでしばらくかかった。口の横をつつくとキュッと口がしまる。それにしてもいつさかながまぎれこんでくるのかわからないのに口をひらいて待っているとは忍耐づよい貝だ。

 2ダイブして昼食の後、非常にのどがかわいていたときぼくはまちがってビールをあけてしまいそれを飲んだ。次のダイブは3時間あとなのでまあいいだろうと考えていたがみつかり、きょうはもうダイビングをするなと宣告されてしまった。夕方のダイビングはあきらめたがナイトダイブはそのとき頼めば許されるだろうと思っていたが、あまかった。ダイブマスターにPADIのアドバンスコースのテキストにも飲酒はよくないと書いてあるが7時間たってもダメだとは書いてないナイトダイブをやらせてくれと頼んが彼はクィーンズランドの法律でアルコールを飲んでダイブした場合50ドルぐらいの罰金をとられる。そのうえもしおまえがアクシデントをおこしたら、ぼくがインストラクターの資格を剥奪されるといわれ、あきらめた。

 翌日はいよいよコッドホールのダイビングである。ジャイアント・ポテト・コッドという1〜1.5mもある白地に7cmぐらいの黒い斑点のあるハタの1種に餌付けをする。エントリーするといるはいるはコッドやでこちんあたまで70cmぐらいのナポレオンフィッシュからフォーラインスナッパー、80cmぐらいもあるほそながいパイプフィッシュ、はたまたオレンジのシーポーチがむれまわっている。岩かげにはウツボがなにごとかと顔をだしている。ぼくはダイブマスターの注意どおり指をださないようにしてウツボを観察した。

 ダイブマスターのペリーがエントリーしてきて、さかなの身をコッドになげあたえた。コッドがでかい口をあけのみこんだ。えさを持ったままにしているとコッドがえさを持ったうでごとひじぐらいまで食べてしまうというのでなげあたえるのだ。コッドがどんどん集まってきてぼくの体の横をすりぬけていく。さわってもほかのさかなはピュンとにげるのにさすがにどうどうとしてびくともしない。ペリーがえさをかなりつかったのでぼくがやろうと思ってももうえさがなかった。ダイバーのなかには底をはっているなまこをつかまえてコッドにさしだすアホもいたがさすがにコッドも奇怪ななまこは食べる気がしなかったのだろう。じろっとみるだけでとおりすぎた。このなまこは日本でみるぬるっとした感じのものとはちがい、かなり大きく1面にとげのような枝のようなものがはえていて、宇宙からやってきた生物のようなものでぼくはとてもつかまえてみようとはおもわないグロテスクさだ。

 きょう1日このコッドホールでダイブし、ナイトダイブはしないとペリーが言った。ぼくはグレートバリアリーフで1度もナイトダイブできないことがわかってがくっときた。

 次のダイブでサンゴの森のなかを泳ぎ回っていたら船がわからなくなってしまった。1度浮上して方向を確認してから潜りもどった。途中で前方の底になにやら大きいものがみえるのでじっくりみるとさめである。なにやら休憩しているのか止まっている。バディに合図して迂回した。たぶんあのさめはおとなしいやつだろうと思うがどうも気になった。こっちに泳いできたらどうしようか考えた。ぼくはナイフを持っているが、バディは持っていない。エアーも残り少ない。まずいという気がした。船の真下まできてみたらもうほかのダイバーはだれもいない。さめは水面にあるバタバタしたものを襲うという。船にあがるときが問題だ。さめがいないが十分注意してエキジットした。

 コッドホールの翌日つまり陸にあがる日、朝8時までに水深10m以内でおわるならダイビングしていいとペリーが言ったので6時半ごろおきて半数の人がダイブした。これは12時に飛行機にのりケアンズに帰るのでその4時間前までに終わらないと体内の残留窒素が安全レベルまでさがらないからだ。リザード島の沖合いわずか300mのところであったがまた大きなシャコ貝をみた。そのほかブルーのきれいなひとでをみた。最後にみんなで水中記念写真をとってあがった。

 なおダイバーは日本人がぼくをいれて8人、チェコスロバキア人が1人、アメリカ人が2人、ドイツ人が2人、あとはオーストラリア人だろう。

 6 その他

 ダイビング以外の日は自由行動でなにをしようかまよった。フィッツロイ島というリゾートの島でヨットにのるか、クランダという高原の町で馬にのるか、ポートダグラスでパラセイリングをするか、まよったが、数あるリゾートアイランドのひとつにはどうしても行ってみたかったのでフィッツロイ島にした。フェリーのキップを買っておどろいたのはチケットに英語で書いてある下に日本語でも書いてあることだ。いかに大勢の日本人がケアンズにきているか想像できる。

 島についてヨットを借りようとすると壊れているというほかのでいいというと1隻しかないというマネージャーをつかまえてどこにヨットがありどう壊れていると問いつめた。たしかにカタマランがありマストの金具が壊れていたが、先週壊れたと言う、ほんとうかね。客よせのために壊れたカタマランをもらってきて置いてあるだけじゃないのか。だいたい本気でレンタルをやるなら1隻ということはないだろう。これはペテンだ。ぼくは貴重な1日を最悪の選択をしてしまった。水泳をして気をまぎらせた。これならスノーケルを持ってくるんだった。

 7 川下り(ラフティング)

 最後の日はタリー川の川下りにいった。タリー川なんて近いところの川だと思ったら大きなまちがいで160km以上はなれている。名古屋から静岡までの距離だ。でも信号はないし、スピードもだせるので2時間かからなかった。

 タリー川の上流に着いて、ヘルメットとライフジャケットを着た。客は80人ぐらいだが40%は日本人だ。まったくいったい何人オーストラリアに来ているんだろう。

 ラフティング(川下り)はここから昼食をはさんで延々5時間かけて行われる。犬山のライン下りなんかとは全然装備からしてちがう、迫力がすごい。ボートはゴムボートで客が7人、エキスパートが1人全員パドルをもち全員でボートをエキスパートの指示によりあやつっていく。まず流れの少ないところで号令とそれに対する操作をおぼえる。前にこぐ動作、後ろにこぐ動作、ボートにつかまりふり落とされないようにする動作、普通に左右に重心を移す動作、瞬時にジャンプして重心を移す動作、解除動作といろいろある。特にジャンプして重心移動する動作はほとんど滝といっていい早瀬をのりこえるときに使い、ジャンピング・レフトとかジャンピング・ライトというのですぐにそれをしなければならない。これが遅いと悲惨でボートがかたむき水が滝のようにボートの中に流れこんでくる。失敗して転覆するボートもあったが、早瀬にまきこまれるとしばらくはライフジャケットをきていても浮き上がってこない。

 昼食後も急流を下ったが途中でボートをおり、水泳もした。日本ではこういう谷川はたいてい川幅がせまくてできないだろう。非常にラフティングはおもしろかった。

 8 オーストラリアについて

 このタリー・リバー・ラフティングにいく道中は百数10キロほとんどすべてさとうきび畑で畑の中に収穫用鉄道のレールがひいてありさとうきびははるかかなたまでうわっていた。

 道路の看板であるリゾートまで「たったの80km」と書いてあったり、マクドナルドのショップの宣伝でもあと36kmでマクドナルドと書いてあり、どうも100km以下は近いという感覚であるようだ。もっとも100kmぐらいなら1時間かからないほど通行の障害になるものはない。

 またかなり海岸からはなれている農家でもモーターボートを庭においているし、なにより人口7万人のケアンズのハーバーでクルーザーが200隻も係留してあるのにはびっくりした。

 またトレーラーによるレジャーもさかんでちょっとした町には必ずVAN PARKとCARAVAN PARKといった名前のトレーラー用オートキャンプ施設があったし、かなりのパーセンテイジでトレーラーを庭においてあった。

 ゴルフ場もちょっとした町には必ずあった。ただしコースはほとんど平坦である。

 中古住宅は10万オーストラリアドルから16万ドルぐらいが一番多かった。

 しかし先住民のアボリジニーの生活はよくない。マーリン桟橋の入り口でも数人のアボリジニーが酒を飲んで寝ていたし、バーにいる人間の半数は彼らだった。彼らはオーストラリアの繁栄とは縁が少ないようだ。

 

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