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      インド 行った地域と主要な遺跡について

タージマハルの風景

wpe6.jpg (16368 バイト)

ムンバイ(旧名ボンベイ) 人口1300万人インド最大の都市でほとんどひとつの国ともいえる。宿泊物価は極端に高い。空港でおりたときインド人の荷物はスーツケースをふとんでしばったり、布でぐるぐるまきにしてあったりとそうとう厳重に保護してあったのでよほど荷物の扱いが乱暴なのか心配になった。ぼくの荷物はリュックをそのままあづけただけだったからだ。しかしなんともなかった。インド門の周辺に観光客めあてのガイド斡旋屋がおり、エレファンタ島や市内観光の売り込みをしている。インド門の近くにタージ・マハル・ホテルがあるがこれは昔ムンバイ1の富豪ターター氏が白人専用ホテルで入場を断られ、憤慨してインド人がはいれる1流ホテルを作ろうと決意して作ったといういわくつきのホテルである。大学や郵便局といった建物が昔の建物を使っているが徐々に崩壊にむかっているという印象。高層ビルの前の歩道でボロにくるまった人が寝ていたりと、その落差はひどい。

アウランガーバード 人口60万人。インドで人口60万人といえば普通の都市という感じになる。そしてどこにそんなおおぜいいるのかと思うほど、どこもいなかくさい。ムガール帝国6代皇帝アウラングゼーブ帝が自ら命名した都市。ここでムガール帝国皇帝6代までをのべておく。

初代 ババル帝1508-1530

2代 フマーユーン帝1530-1556 デリーに彼の廟がある。これはタージ・マハルのモデルになった。

3代 アクバル帝1556-1605 ファテープル・スィクリーを作ったが14年しか使わなかった。

4代 ジャハーンギール帝1605-1627

5代 シャー・ジャハーン帝1628-1656 タージ・マハル,アーグラー城,デリー城をつくり国の財政が傾いた。

6代 アウラングゼーブ帝1658-1707

マハーラーシュトラ州の警察署や派出所には玄関に大砲がかざってある。警官はどの州もピストルではなく長い銃(ショットガンかライフルか、ぼくにはわからない)を持っている空港などは自動小銃を持った警官もいる。ぼくがデリーについたとき、新聞でムンバイで農民の暴動がおこり、警官が空に向かって銃を撃ち、催涙ガスをまいたという記事があった。総じてどこでも警官はおおい。ヒッチハイクで警官の護送車のような車にのせてもらったとき、中に何丁か銃があった。警官は玉ははいっていないといっていたがそれはうそだろう。たっぷりはいっていると思う。バザールがあり、無限ともいえるほどあちらの道、こちらの道と続いている。バザールの中を歩き続けたがはてがなかった。これが人口60万都市の真骨頂だろう。

アジャンター 30の仏教石窟寺院がある。これらは岩山の中腹をはつり進み、ビハーラ窟(僧侶の居住修業する石窟)チャイティヤ窟(内部にストゥーパがあり礼拝する石窟)がつくられている。第1窟にある壁画は法隆寺金堂の壁画のモデルではないかといわれている。

エローラ 仏教、ヒンズー教、ジャイナ教の石窟寺院が34窟ある。第16窟のカイラーサナータ寺院は特に巨大で奥行き83m幅46m高さ35mの本殿、塔、門などを岩から100年かけて堀りぬいた巨大な彫刻だ。普通の建物のように切り抜いた岩を積み上げたものではなく、岩から掘りぬいた。ヒンズー教徒のバスガイドはヒンズーの石窟がいちばんりっぱなのでほこりに思っているようで世界最大だと言っていた。たしかに世界最大の彫刻だ。

ダウラーターバード砦 インド3大砦のひとつひとつの岩山の中腹から垂直に50m掘りさげ堀として外部に10mもちあがっている。城壁は万里の長城のようにデカン高原のとなりの山までのびいてる。このほかにもアウランガーバード周辺にはいろいろあった。

ジャイプール マハラジャのジャイ・スィン2世が作った町。城壁の中の町は通りに面した建物をすべてピンク色(実際はれんが色)にぬり、ピンクシティと呼ばれる。ハワ・マハル(風の宮殿)が有名。シティパレスというマハラジャの子孫が経営する博物館もある。しかしその入場料は非常に高い。マハラジャの子孫は永続的に金がはいってくる。郊外のアンベール城は巨大な城でその部屋数はすごい。その中には宝石ではないが、イスラム模様に鏡が一面はめこまれた広間もあり、栄華がしのばれる。

デリー 人口1000万人。長距離バスで行ったがデリー手前30kmぐらいからかすみだし、ニューデリー中心部もすぐ近くでもかすんでいる。排気ガス公害の首都。郊外のクタプ・ミーナールには73mの塔がある。そこにアイアンピラー(鉄柱)があり1600年屋外にたつのに黒錆だけで錆おちていない。午後からツァーバスに乗ったがネルー記念博物館でガイドが非常に時間をかけ説明していたのが印象的だった。デリー城(ラール・キラー)は赤砂岩でできた非常に大きな城、宮殿では建物内に川がながれ噴水があった。おそらくインドで一番多くの旅行者をたぶらかそうという人種がいる町だろう。なかでもひどいのは日本人の女性が日本人をだますケースで彼女の夫は300kmはなれたジャイプールまで悪名がとどろいているやつだという。この女性から声をかけられたという人間2人に後であった。

アーグラー 人口100万人。有名なタージ・マハルがある町。しかし排気ガス公害の町でもある。タージ・マハルの白大理石は風前の灯火であるらしい。見学の際、電気自動車に乗り換えさせられたがもっと根本をなおさないと全然だめだ。タージ・マハルには少なくみても1日2万人が全インド、全世界からきている。入場料が15ルピーでそのうち税金が10ルピー、州政府には日銭20万ルピーはいるはずなのに地元の町、住民にはなんの恩恵があるのだろう。しょっちゅうある停電、排気ガス、デコボコの道路、ごみの放置。これらはかせぎの種であるタージ・マハルさえ犯そうとしている。電気自動車程度のことはインド人もナンセンスと言っていた。タージ・マハルは作った目的(シャージャハーン帝の妃の墓)も住民無関係なら、現在も無関係か生活悪化(観光客がきて排気ガスがふえる)の一因でさえある。ただつくったとき国の財政が傾いたといったものが今、貴重な財源であることは確かだ。およそ外国人旅行者で初回のインド訪問ならタージ・マハルを素通りしていく人はいないだろう。これが世界にアピールし、インド旅行の呼び水になっていることは確かだ。もっと地元の住民にもうるおうことができないのか。

タージ・マハル 建物本体に唐草もようににているようなイスラム模様があるがこれは描いたものではない。赤い花には赤い宝石が緑には緑の宝石が建物全体に白大理石をくりぬいてはめてある。その総額は天文学的数字だろう。だから当時、国の財政が傾いたのだ。大理石で作っただけなら傾かないだろう。入場するとき非常に厳重なセキュリティチェックがあったがこういう宝石をえぐりとる道具をもっていないかのチェックも兼ねているのだろうということがわかった。日光に欄間かなにかの透かし彫りがあるがここには大理石の透かし彫りがある。妃の平安を願ってつくった廟だが逆にあまりにりっぱすぎて、まったく彼らに関係ない人たちが毎日ふみあらしに来ている。あの世でなげいているのではないだろうか。

カジュラーホー 人口8000人。エロチックな寺院の彫刻で有名。鉄道路線から100km以上はなれた辺ぴなところにある。しかし有名なためかこんな小さな町でも飛行場があり、ぼくも出るときは飛行機を使った。寺院は東群、西群、南群とわかれて全部で22のこっていた。最盛期には80以上あったという。ぼくはこの寺院が宇宙船にみえてしかたがなかった。インドの都会は排気ガスとたえまなく鳴るクラクション騒音の都と化している。ぼくはこういういなかが好きだ。客引きさえいなければ。

バラナシ 人口100万人。ビンズー教最大の聖地。ここで死に火葬され、灰をガンガー(ガンジス河)に流されるのがもっとものぞましい死に方。火葬場の近くにホスピスがあり、死をまつ人々が生活している。案内してくれた人が100ルピーあげてほしいと言ったがそんな義理はないので50ルピーにした。そしてその案内人は自分には20ルピーのガイド料をよこせという。火葬場のまわりはまきが山とつまれ、ガンガーにもまきを積んだ船が何艘も浮かんでいた。1人火葬するのにまきが1500ルピー分いるのだそうだ。ぼくが火葬場から500mぐらいはなれた所から写真をとったらすぐに白人がすっ飛んできてすぐにカメラをしまえ、そうしないと重大なトラブルに巻き込まれるぞと注意してくれた。ぼくも人の火葬している所を写真にとろうとは思わないが500mはなれたそこらへんならいいかと思ったがやはり、人の尊厳を観光できてはふみにじることになるだろう。しかし見るだけならよいとの事でホスピスの中から見た。火がついているところにまきを橋渡し遺体をおき、その上にまたまきをおく、しばらくすると火がつきまきと遺体が燃え始める。数人が火葬され、ほとんど24時間火葬がつづくとのこと。翌日、夜明け前に船でガンガーをのぼりくだりしたおり、また火葬場にきたが船頭は6種類の人はここで火葬されず、直接ガンガーに流されると説明した。ひとつは行者で覚りがひらかれているということか、次は10才以下の子ども、けがれを知らないから、次は妊娠中に死んだ女性、次はコブラにかまれて死んだ人、コブラは竜の化身と考えられている。次はハンセン病患者、最後は言葉がよくわからなかったがジェスチャーから天然痘患者のようだ。(天然痘はWHOから撲滅宣言がでている)。船頭は日本で阪神大震災があったことを知っていて話した。ぼくはもしバラナシでああいう地震があったら壊滅だろうといった。ところが彼はバラナシでもときどき地震があるという。しかしシバ神のパワーでまもられているから大丈夫だと真顔で言うのでまいった。船頭がその船のオーナーはシルクのみやげ物屋をやっているのでぜひ行ってくれというので行った。まがりくねった道を歩き、ある建物の中にはいった、アラビアンナイトででてくるような感じの場所だ。例によって「見るだけ、ただ」とそれだけ日本語でいうので見ていた。たしかにすばらしいシルクのショールが次々とでてきて女性ならほしくなるだろう。こういう高いものはドル建てで売るのだが主人がいくらぐらいすると思うというので、高いことをいうと相手の術策にはまってしまうので「80ルピーか」というと職人が1カ月もかけて作ったものだぞ。これは20ドルだといって怒りだした。照明も消してチャーイの注文もキャンセルしてそれでおしまい。出て行ってくれとなった。バラナシはこのガンガーぞいのガート以外は喧騒とした町で聖地とは思えない。日本人が奥さんでホテルを経営しているところに「久美子の家」というところがあるがここでは日没以後は外出禁止だという、そこに泊まった人になぜか聞いたらバラナシでは10月にはいって7人の日本人が行方不明になっている。危険な町だ。だから安全のため外出禁止にしているとのことだ。しかしほんとうに1カ月に日本人だけで7人も行方不明者がでるようなら大使館や渡航情報でなんらかの通達があるはずだと思う。こんな割合ならアメリカより危険なことになる。ただガート近辺の町は幅2mにもみたない小道が縦横に走り、耐震性のない4,5階建ての建物がひしめいていて1度はいったらほんとに出てこれないほど込み入っている。何回が角を曲がると方向もわからなくなる。犯罪にはかっこうの場所かもしれない。ガートの近くに通称ゴールデン・テンプルと呼ばれる屋根に金箔がはってある寺を見にいったときやけに警官が寺のまわりに立っており、どうしてかと聞いたら、ヒンズーの聖地バラナシを昔イスラムが占領した、それをヒンズーが奪い返したがこの寺もその中のひとつで宗教対立の象徴のようなものだというようなことをいっていた。そして暴動とかいさかいが発生するのを押さえるため警戒しているとのこと。警官がいるので写真もとってはいけないとのこと。1992年12月にはアヨーデアというヒンズーの神話のふるさとでヒンズーがイスラム寺院を破壊したこともある。インドとパキスタンも兄弟国家なのにかたきのように対立している。それは単にカシミールの帰属問題だけではない。根底には宗教対立がある。テロリストの基地がパキスタン領内にあるとか、テロをした人物の国籍がパキスタンだったというようなことをニュースで流している。

サールナート バラナシの郊外にあるブッダがはじめて説法をした場所、鹿野苑。実際鹿がはなしがいになっている公園もある。ダメーク・ストゥーパという壊れかかった大塔もある。日曜日でムルガンダ・クティー寺院にははいれなかった。例によってガイドらしき人がでてきて説明しながらついてくる。説明を聞き流しながら、あなたはガイドかと聞くと違うという。無視しているとやがてどこかに行った。

ガヤ ヒンズー教の聖地のひとつだが、日本人はボードガヤに行く通過点としてしかみていない。鉄道の駅がここにあり、ボードガヤにはないからだ。いくら葬式仏教でも仏教の聖地に行ってみたいというのが日本人の心情なのだろう。市内もろくろく舗装してなく貧しいビハール州にきたという印象。着いた日と翌日カルカッタに行く日に夜、駅で夜行を待っていたが駅前広場に何百人という人が横になり寝ているのが心にひっかかった。駅の蛍光灯に夜、何千匹というヨコバイがよってきて、その下を通ると体じゅうにまとわりつく。日中蛍光灯に新聞紙がひっかけてあるがなぜだろうと思っていたが今わかった。光の近くでヨコバイがとまるところがあるとそこにとまるので群がり飛ぶ虫が大幅にへるのだ。

ボードガヤ ブッダが覚りを開いた菩提樹がある地。日本ではブッダガヤとして知られる。そこは今マハーボーディ寺院がたっており、近くには仏教国の寺院がたっている。チベット寺、スリランカゲストハウス、ミャンマー寺、中国寺、タイ寺、ブータン寺、日本寺とある。日本寺は各宗合同の寺でこれらの中ではもっともシンプルで敷地内に診療所をひらいたり、保育園をひらいたりで威勢を誇示しているわけではないのでよいが、大乗教インド別院はただ威勢を誇示するだけの寺ではずかしいかぎりだ。もっとひどいのは愛知県の坊主が立てたという大仏で刈谷や岡崎、豊田、豊橋、名古屋の寄付した人の名が掘ってある石柱が並んでいるがまったくの権力顕示、財力誇示でしかない。こんなものを愛知県の、しかも西三河の人間が中心になって仏教の聖地にこれみよがしに建てたのははじさらしの典型だ。どうせ自分らの名前が末代まで仏教の聖地に残るとか言って金をかきあつめたのだろう。何年もして再びくると日本の他宗派がまた金にまかせてわれもわれもとインド別院をつくっていることになるかも知れない。宗教対立が今も続いている他国で事情も知らずに作り、反感や対立をあおるようなことはするべきでない。こんな大仏は打ち壊されたとしても文句はいえない。ブッダもこういう見栄はいましめるところだろう。こんなものを作ったことでそれが世俗的えせ宗教だということを証明しているだけだ。だいたい仏教が13世紀にインドで壊滅的に零落したのはブッダの時代から王や金持のようなパトロンに依存して民衆的基盤をもたなかったからだ。イスラムの進入に対してヒンズーは持ちこたえたが仏教は根こそぎ破壊されたのだ。それから700年たってもまだこんなことをしている。当初アジャンターやエローラの石窟寺院も僧侶が掘ったのかとおもっていたがそのほとんどは商人、富豪の寄進によっていたという。町から郊外にでるとのどかな農村風景になる。インドで初めて水田風景をみた。ぼくはここでは一番いいホテルに泊まったがそこのロビーで坊さんがガイドと話していた。ふたりともタイ人だということがわかった。タイの高僧?と旅行社のガイドだ。ぼくが覚りの菩提樹をみていると、この人相からみて典型的なくそ坊主が来てひょいと頭を下げ、瞑想中のスリランカ僧にもちょろっとあいさつしてそそくさと出ていった。観光客のぼくより短い。こういう人物が帰国してから菩提樹の下でブッダの声を聞いたとか光明が走ったとかでまかせを言って民衆をまどわし、自身の出世をねらうのだろうと思った。タイ寺に宿泊できるのにこの地で一番高いホテルに泊まる修行僧など聞いたこともない。

カルカッタ 人口1200万人。寝台急行2等でカルカッタに着いた。ここも排気ガス公害の町でフーグリ川の向こう岸は岸辺しか見えずあとはかすみの中だ。いっしょに来たスコットランド人たちとYMCAでわかれて、いっしょになった日本人とホテルをさがしたが気に入るところがなく2時間もさがしまわった。結局高いがイギリス人のマダムの経営するホテルにした。午後からカルカッタの名の由来になったカーリー寺院に行った。いけにえとしてやぎの首をはねることで有名だがその断頭台が真っ赤になっていた。血がめだたないように赤ペンキがぬってあるのだろう。ボードガヤの初日の昼飯があたり(それ以前は21時間なにもたべていず昼飯を食べて2時間で下痢)ここにきて歩く気力が無くなってきた。ホテルにもどり寝たが寒けがして熱も出てきた。単なる食あたりではないかも知れない。ホテルには水まくらもなにもないので、タオルをしめらして寝た。夕食時もおかしく、嘔吐した。最後になって気がぬけたせいじゃないかという人もいたがそんな感じではない。翌日はインド博物館とマザー・テレサの家に行ったがそれが限界だった。最後なので少しみやげを買おうかと思っていたが行く気がしない。マザー・テレサは今年9月はじめになくなられたがその棺が安置してあった。寄付をしてから帰った。この家から30mぐらいはなられたところに5階建てのビルがありレーニンらしき似顔絵の旗があるので守衛にここはインド共産党の本部かと聞くとそうだという。インドには2系列共産党があるのでどっちのかと聞くとわからないのかにこにこしているばかりだった。人力車にのってホテルに帰った。途中、赤地にかまとハンマーの絵のついた旗をもった人たちが家々を訪問していた。12時にチェックアウトしてもうどこにも行く気がしないのでダムダム空港に向かった。地下鉄でダムダムまで行ってそこからサイクルリクシャにのったが30分ぐらいかかった。国際線ビルと国内線ビルにわかれていて、看板にヒンズー語、ベンガリー語、英語で書いてあるがリクシャワーラーは読めないらしく国内線に向かう。こっちじゃないと言って国際線に向かってもらう。広い敷地内をサイクルリクシャで走るのは場違いな感じだが1時半ぐらいについた。いままで大都市のビル以外では公共施設を含んでどこも冷房はなく、天井扇ばかりだったがさすがに国際空港だ。冷房がしてある。いつも思ったが今は乾季で最高気温は34度ぐらいだが、これが暑季の40度をこえる季節のとき天井扇だけでもつのかどうか、人々はどうすごすのだろう。これから7時の飛行機まで延々と待っていたが同じ便で帰国する日本人がぼちぼちと集まってきたので話をした。インドではこのところ爆弾テロもあるが空港のセキュリティは非常に厳重で合計5回ほど荷物の検査をした。電池は機内持ち込み禁止で、ぼくを含め何人もひっかかっていた。予備の電池は機長あづかりにすればいいのだが寄付すると言って開放してもらった。カメラや時計も電池を使っているのだがそんなことを言えばやぶへびになるので予備電池の寄付だけで勘弁してもらった。やっと飛行機に乗り込み爆弾がしかけられていないことを願いつつ帰国した。

全体に否定的な印象になったかも知れないが社会基盤の整備状況がちがうから比較した場合、そういう印象になってしまう。道路の舗装でもぼくが小学生のころ社会科の教科書で日本の国道だけの舗装率が9%、イギリスは100%と習ったことがある。少し前の日本と比較すれば日本のこともとやかく言えるものではない。現在でもこれでどうなっていくのだろうというひどい状況だ。しかしインドはもっとたくさん大きな問題があることだけは確かだ。インドの状況は他の南アジア、東南アジアにも共通してある。シンガポールはそれを罰金などで急速に変えた国だが、インドではそういうやり方はできない。原爆や原発、ロケットもある一方で蛍光灯が壊れてもろくろく直せないという多様性がどうなっていくのか、日本とは対極にある感じのインドは価値観を考えさせる国だった。ぼくはこうして日本に帰って来たがインドでは、ぼくが見た路上で生活する人、物ごいをする人、駅前広場で寝ていた人、手足のない人、そういうおびただしい人たちは今も同じようにしているのだろう。こういう現実をどうしていったらいいのだろうか。

 

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