中国 北京と西安  世界遺産など   その1  その2  その3  その4

故宮博物院

清朝の紫禁城だったところで72万uぐらいあるが半分ぐらいの面積が公開されている。非常に広くたくさんの建物があり、展示物もあるので当初2日間を予定していたが西安にいくことにしたので1日で回った。それでも7時間ぐらいかかった。この日の総歩行数は約57000歩でほとんどは故宮での歩行数だ。途中でもうやめようかと思ったが閉門時刻まで見てまわった。

天安門の前にも後ろにもいろいろな門がある。一番南に箭楼があり次に正陽門(通称、前門)、次は大清門があったのだが毛沢東が死んだ後、この大清門文化財をぶち壊して毛沢東さらし堂(中国では毛主席紀念堂という)を作った。そして天安門、端門、午門ここで入場券を買う。そして太和門と続く。

なんでも徹底的にでかく作らないと気がすまないらしく、たかが門といっても大きい。

 

前門大街から遠くに箭楼が見える。                         左は箭楼、右が正陽門 (前門)。

正陽門の後、天安門広場がありその北に天安門そして端門に続く。

 

端門                                                                        午門

 

太和門この門をくぐると太和広場が広がる                3万uある太和広場とそのはるか向こうが太和殿

  

内廷と呼ばれるエリアの扁額には漢字と清朝の出身民族満州文字が書かれている。外朝と呼ばれるエリアの扁額は袁世凱が架け替えたため漢字のみということ。

各国語のオートマチックガイドという機器を40元で借りれるが、それぞれの門や建物などに近づくと解説が始まる。博物館内部のような狭いエリアの場合有効ではないが、故宮のように点在していると電波範囲が重複しないので便利に使える。この方式のオートマチックガイドは頤和園にもあった。内廷もほぼすべて見たが長くなるので省略

さすがに後半疲れてきて、はやくビールが飲みたいこともあり、見学を止めようかとも思ったが一応徹底的に閉門ぎりぎりまで見た。

  

草の生えた屋根、高い入場料はどこに消えた。保全しないのか。一般家屋や塀でも草が生えていることが多いがなぜだろう。黄砂が飛んできて積もるのだろうか。そうだとしても水が不足するはずだ。屋根だから雨だってほとんど流れてしまうはずだ。

明十三陵

翌日は万里の長城と明十三陵に行った。ともに世界遺産。遠いのでツァーを予約した。当日はポルトガル女性2人、スペイン女性2人と男性1人、シンガポール人夫妻、インド男性1人とぼく、およびガイドといっしょ。1人参加はぼくとインド人なので彼がよく話しかけてきた。チェンナイに住んでいて仕事で来たついでに観光しているとのこと。まだ日中30℃ぐらいになるのに、ジャンパーを終日着ていた。寒がりなんだろう。「インドと中国はどう」と聞くので、ぼくは「インドには行ったことがある。インドは世界最大の民主主義国、中国は世界最大の独裁国」と言ったら、うなづいていた。インドは有権者数が世界最大なのでインド政府も「世界最大の民主主義」と言っている。

8時30分に出発して19時に帰ってきた。ガイドがのんびりした人間でめりはりがまったくない。マイクロバスの運転手が出発時刻が決めてあるのに休憩していて来ないときが3回あった。それをだまって待っているのだからあきれる。玉工芸品と銅工芸品、お茶の土産店にもよった。ツァー会社のリベート稼ぎのためだ。こういうところがツァーのいやなところでさらに時間をかけて見学できないこともある。もしツァーなら故宮でもせいぜい3時間ぐらいだろう。

明十三陵とは明代の皇帝の墓で13あるらしいが公開されているのは3つ、そのうち長陵という永楽帝の墓に行った。長陵は1409年に作られた。訪問した2009年からはジャスト600年前。

 

稷恩殿                                                                     稷恩殿 のなかにある永楽帝の巨像

  この門の後ろに周囲1kmの山があり、地下宮殿があるらしい。そして皇帝の棺もそこにある。

まったく墓によくこれだけの金をかけるものだ。ピラミッドにしろ、古墳にしろ君主というものはどうしようもない。定陵では地下宮殿が公開されているらしいが、そこには行かない。ひどいもんだ。契約内容がそうなっているからしょうがない。

万里の長城

 

八達嶺                                                    登りはきついが下りはきわめて簡単に降りてくることができる。

 

はるかかなたまで延々とつづく

長城は山の稜線の少し外側に作られている。そうすると外敵側には城壁が高く、自国側は低くなるからだ。故宮の場合は広すぎて分散してわからなかったがここでは長いだけで幅がないから日本人団体に多く出くわした。「よくこんなもの作ったな」という感嘆の声が聞こえたが、ほんとうにこんな山の稜線に延々何千キロもよく作った。作った人たちに敬意を表したい。長城は英語でGreat Wallというが作業した人たちにGreatと言いたい。現代の機械技術を駆使してもたいへんだ。そして出来てから監視するのもたいへんだろう。のろしか何かで連絡したのだろうが天候によっては連絡できないときがあるだろうし侵入する方はそういうときをねらってくるだろう。ところどころに監視塔があるのでそこに常駐したのか。交替要員や監視者の食料などどうしたのか。たとえば兵士が5日分の食料を背負って5日先の長城まで行き毎日1日分の監視受け持ちエリアをもどり5日後にはベースとなるところに引き返すのか。または食料運搬要員が運ぶのか、それだと基本的にかついで運ぶことしかできないので大勢の兵士の何日分も運べない。

長城は英語でGreat Wallというがこれは外敵の侵入をふせぐためにある。現在、中国はGreat Fire Wall (Fire Wallはこの場合インターネットの防壁のこと) を作った。これは中国国民が内外の政府に都合の悪いインターネットサイトを見れないようにするためである。あきれた国だ。Great Fire Wallはインターネットをよく見る人は大抵知っている。

頤和園

北京の北西にあるが、たぶん2009年中には開通する地下鉄4号線なら頤和園前に北宮門駅ができ、便利になる。しかしまだ未開通なので10号線でもっとも近い駅まで行き、そこからタクシーに乗った。北京に最初にいた3日間は空は比較的すっきりしていたが西安に行き、もどってきてからは非常にかすんでいて少し遠いと、つまり50mでもかすみ、それ以上だとすべてぼやけてしまう。黄砂が来たのだろうか。

頤和園の庭園部分のみでは中国人は無料らしい。ICカード化された身分証明書を読み取り機に置けばはいれる。そのため、園内で合唱する人たちがいるが郊外であるのでその人数は中心部の景山公園や北海公園、天壇よりもはるかに少ない。

ここも非常に広くオーマチックガイドを借りて見学したが5時間かかった。それでも十七孔橋などはパスした。

 

東門からはいって最初にある仁寿殿。      頤和園のシンボル仏香閣、そのすぐ下から見てもかすんでいる。

 

かすむ四大武州、チベット仏教の寺院                       徳和殿、西太后が京劇を見るために作らせた。3階建てにしなければ軽くすみ、京劇の舞台の柱を減らして見やすくできると思うが、でかいものを作らないと気がすまないのか。

 

徳和殿では京劇を上演していた。                             柱の間隔が狭く見にくい。

 

皇帝の后らが買い物ごっこをするために作らせた蘇州街。上海の西方にある蘇州を模した町並み

合唱するひとのほかに乾けば消える水で石畳などに字を書く人が何人もいる。地書というらしい。ほんとうに簡単そうにさらさらとうまい字を書く人がいる。

西安の南門の売店内に書を書いて売る書家がいた。なにか有名人と握手したり、表彰されている写真を掲載してりっぱな書家であるかのようにしていた。扁額用の同じ書を何枚も書いていたのでなれているはずなのに、書いた後、上からなぞったり、はねを強くしたりして修正していた。あまりにひどいので笑ってやろうか思ったが、そういうペテン書家よりこの地書書きの人の方がはるかにうまい。

 

地書といって石畳などに水で字を書く。字のかなりうまい人もいる。

 

書いた文字、                                                            篆書を書く人もいる。

  

ウレタンの筆にペットボトルからインクとしての水が供給される。

 

絵を描く人もいる。                                                    古代の美人画

雍和宮

頤和園で時間がかかってしまったので15時ごろ昼食を取って地下鉄の雍和宮駅もあるチベット仏教寺院、雍和宮に行った。頤和園にもチベット仏教寺院はあるがすでに僧侶はいないし政府の管理下になっているのでまわりをはばかってか、祈る人はいなかったが、ここは現役の寺院なのではばかることなく祈る人がたくさんいた。

 

昭泰門                                                                      万福閣の大仏、大きいので足しか写せない。

 

ひざ乗せ台があり、熱心に祈る人

雍和宮は閉館というか、参拝見学終了時刻が16時半で15分前からはしつこいぐらい放送がはいり、出てきた。その後いろいろなフートンを歩き、さまよい、1時間後ホテルまでもどった。

 

毛沢東

中国国内では彼の負の面についてはほとんど述べられないだろうが、大躍進政策の失敗で数千万人が死亡、餓死し、国家主席を辞任したが、文化大革命を始動し権力奪還をはかり、また数千万人の犠牲者を出させたというのは歴史的事実で (人数については推計である。)、これだけの人間を死においやった人物は人類史上、毛沢東しかいない。当時約6億人の人口の中3億人死んでもアメリカとの戦争に勝つと言った。人間の命をこれだけ軽視する人間はいない。文化大革命は4人組のしわざとしているがそれに「造反有理」だとかいろいろ指令を出したのは毛沢東でかれが 死んだから4人組を逮捕できた。

  

反党集団4人組への偉大な勝利として踊り、祝う人々(北海公園の60周年記念掲示)

国家主席辞任にともない、かわりに就任した劉少奇は文化大革命で無実の罪で失脚、悲惨な死をとげたことも文化大革命後の名誉回復で明らかになっている。

これに関連して「北京閑話人・もの・街の88話」(2008年7月10日初版第1刷白井啓介著)という本には非常識な記述がある。普通このようなエピソード話はもう少し気がきいておもしろいがそういう話はなく、158ページの「中国の友人に聞いたジョークについてこういう話がある。酒もタバコもやらない人は、寿命が60歳台どまり(実例・劉少奇)。酒だけでタバコを吸わない人は70歳台(実例・周恩来)。酒を飲まずタバコだけの人は80歳台(実例・毛沢東)。酒もタバコもやる人は90歳台(実例・ケ小平)。・・」以下略。

ところが劉少奇は文化大革命で無実の罪で迫害され、開封に移送、ほとんど病気治療されず放置され72歳目前の71歳で悲惨な死をとげた。死亡年齢も死因も異なる。こんなジョークを引用することが中国研究者に許されるのだろうか。

ケ小平でさえ、毛沢東は功7、罪または過3と言っている。実際は功7PPM、罪999993PPMぐらいではないのか。革命当時、ソ連流でいけば労働者が蜂起するということだろうが毛沢東は農民に依拠した。その程度だろう。しかし革命後、農民は大躍進で餓死、人民公社で貧困、現在でもほとんどの農民は農民戸籍で都市での安価な労働力として著しい所得格差の中にいる。毛沢東さらし堂(中国では毛主席紀念堂という)で毛沢東の遺体がさらしものになるのは、ほんとうに理にかなっている。歴史的犯罪者として永久に展示しておけば良い。

  ↑毛沢東さらし堂 天安門広場にあった文化財、大清門をぶち壊して作った建物

毛沢東さらし堂 (中国では毛主席紀念堂という) にはぼくも行ってみたが手ぶらでいかなければいけなく、近くの預かり所に預けた。デジタルカメラが5元、バッグが3元という高い金額だ。パスポートを見せる必要があり、しかも係員は預かってやるという高圧的な態度だ。その後、長い行列を並び、入場直前の金属探知ゲートで腕時計がいけないと言われた。しかし中国人はほとんどしていた。またカメラも絶対禁止なのにカメラ付き携帯電話をかなりの中国人が手に持ってどうどうと入場している。そうい中でぼくの腕時計をヤリ玉にあげるのはいやがらせとしか考えられない。

毛沢東は赤っぽいライトで照らされていたがほんとうに本物なのだろうか、極秘で蝋人形に替えられているのではないだろうか。30年以上もたつ遺体は剥製のような処理をしているのだろうか。ソ連時代にレーニンも遺体が保存され、まだ現在もさらされている。ソ連崩壊後、従来開かずの文書庫からレーニンの正体があきらかになっているが、あれも歴史的犯罪者として永久に展示しておけば良い。

それにしても宗教を基本的には否定する思想で革命時代のいわゆる「英雄」の遺体を保存するとはどういう発想なのだろう。事実上偶像崇拝になっている。既存宗教施設は破壊したり弾圧しているくせに。

 

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