|
スリランカ旅行 2013年10月9日〜10月29日 21日間 その3 シーギリア 世界遺産 ポロンナルワに向けて出発した。ところがP.S.J氏のトゥクトゥク営業のライセンス更新が必要で故郷の村の隣の町にいかなければならない。きのうもトゥクトゥクの車検のようなことをするためアヌダラープラで検査を受けた。それぞれ20分ほどであった。手続き時間は短いが回り道である。もともと彼が故郷にもどると言っていたのはこういう実務的理由があったのだ。その町から幹線道路に出るまでわけのわからん村道を通ったがP.S.J氏はここの村人は悪人だとか言って走行する。村同士で反目する問題でもあるのだろうか、くわしいことはわからない。このエリアはドライゾーンで11月には雨季にはいる。この10月半ばでも夜中雨が降ったり、日中でも突然スコールとなる。雨季の作付け準備であちこちで田畑や原野に火をつけている。焼畑農業というか日本での野焼きのようなことをしている。火をつけて管理しているわけでもないので大丈夫か大火災にならないか聞いたが一定規模焼きつくすと自然消火してしまうらしい。
焼畑の煙があちこちであがっていた。 幹線道路に出て途中シーギリアによった。シーギリアはスリランカ観光のハイライトであろう。ここには25年前に登ったことがあり、もう1度巨大な岩の上にある王宮跡を見るつもりであったが骨折のため断念、シーギリアレディとよばれるフレスコ画も再度見ることはできなかった。下から眺めるだけとした。当時は途中に内戦のため検問所があり軍隊がいたがぼくがかかわっていた空港のプロジェクトの名前を言うと通してくれた。今はいたって平和である。シーギリア付近は象の生息地、保護区でもあり保護区外や道路に象が出てこないように電気柵が設置してある。日本でも鹿やイノシシが田畑に侵入しないように電気柵が山間部に設置されている。最近では電気工事士の資格なしでできるように政令が改正されている。スリランカでは何ボルトだろうか聞いてみると250Vだと言う。人間が触ればかなり危険な電圧である。DANGERという看板がところどころにつるしてある。しかし象の皮膚はかなり厚いのでそれくらいの電圧でないと象には脅威とはならないだろう。ただしスリランカの商用電圧は230〜240Vなのでほんとうに250Vまでわずか10V電圧を上げているのだろうか。ドシロウトの言うことなのでいまいち信用できないところである。
象よけの電気柵シンハラ語とタミール語、英語で警告が書かれている。右はシーギリアの巨大岩山、この上に王宮があるが松葉杖では行けないので断念した。 シーギリアで昼食をとることにした。レストランには3人連れと2人連れ2組の日本人女性のグループがいた。スリランカに来て初めて見た日本人であるが別に声はかけなかった。ぼくの英語もかなりひどいが若いのにそれ以上にひどい発音で話していた。食事中、このレストランだけが突然停電し最後まで復電しなかった。バッチーンとブレーカーの落ちる音がしたが照明もエアコンもすべて停電、大元が落ちたみたいだ。一挙に室温が上がってきた。 ポロンナルワ 世界遺産 シーギリアからポロンナルワに向けてひたすら走った。途中、ミネリヤ国立公園の前を通ったら、やはりサファリのような催行がされているようだった。到着したのは5時ごろで、寄り道やシーギリアへもよったが、またもや移動だけで1日かかってしまった。トゥクトゥクは法律で40キロに制限されているらしい、実際は50キロぐらい出しているが道路の片隅を走り、普通車より大きい車がくれば道路の片すみに退避するし、少しでもデコボコがあると徐行まで速度を落とす。普通の4輪車なら路面にへこみがあっても両輪の間に来るようにすればスピードダウンしなくたもいいが、トゥクトゥクはかなり小さな3輪タイヤであるのでおそらく安全も考慮すると幅20cm以上のデコボコがあれば5キロ程度まで下げるので実効的平均速度(表定速度)は15〜25キロ程度ではないか。こういう長距離は無理である。 GENERAL HOSPITAL PORONNARUWAの向かいにある本屋でスリランカの地図を買った。病院は無料なので病院前も非常に人手が多く、トゥクトゥクも20数台は待機している。ホテルの宿泊費はアヌラーダプラの1.5倍ほど高いが他はさらに高いし、遺跡にも近いのでそこに決めた。このホテルのレストラン・マネージャーはかなり洗練された身のこなしの人だ。 翌日10/18にポロンナルワ考古地区を見学した。温湿度ともに非常に高く午前中だけで汗でシャツがずぶぬれになった。スリランカは仏教徒が7割以上なので仏像も当然大切に扱う。アヌラーダプラでもここでも仏像を背にしての記念撮影は厳禁であるが、仏像そのものを撮影することは禁止されていない。もちろん遺跡であっても半月石のあるエリアから中は靴を脱ぎ脱帽しなければならない。この脱帽が問題でかなりの時間強い日差しの中で脱帽しているので熱中症になりはしないかと心配であった。スリランカ人もぼくもミネラル・ウォーターを飲んでいるがぼくは1日2リットルぐらいは飲んでいる。そうでなければ日差しと脱水で熱中症になるだろう。その上駐車場から遺跡まではけが人にとってはかなりの距離で、そこを松葉杖で移動するのは苦行に近い。 午後は1時半から見学を続けた。午後1時半というのはP.S.J氏が午後2時まで昼の休憩をしようという提案をけってきめた。トゥクトゥクタクシーは昼によくドライバーが昼寝をしているが、単に客がいないからではなく、昼の暑いときは休憩しているのだろう。 来たからには全部見てやろうとがんばった。写真はのせるが説明は省略する。
ポクドル・ヴィハーラの石立像とポクドル・ヴィハーラ
宮殿跡と閣議場跡
ワタダーゲとトゥーパーラーマ
ラター・マンダパヤとアタダーゲ
ハタダーゲとガルポタ
くずれる直前のサトゥマハル・プラサーダ。 スリランカの学生にめずらしがられて撮った写真
シヴァ・デーワーラヤNo2とパバル・ヴィハーラ。パバル・ヴィハーラのような半球の大塔でもポロンナルワではダーガバとは言わない。なぜか不明。ヴィハーラとは僧院、寺院という意味のはずだが無人である。
ランコトゥ・ヴィハーラとランカティラカ
キリ・ヴィハーラとガル・ヴィハーラの座像
ガル・ヴィハーラには座像のほか、この立像と涅槃像がある。 道路にはホシガメがいた。
蓮形の池と修復中のティワンカ・ピリマゲ寺院 ぼくの2泊目このホテルに新婚カップルとその親族が宿泊した。そして翌日またもやロケさながらにホテルの前で記念写真をプロの写真家が撮っている。前日も別のホテルでパーティーをしていて夕方、飾りたてた自動車で出発したので、それも披露宴だったのだろう。
コロンボにもどり病院でギプスをもう1度作ってもらう
P.S.J氏は毎朝、必ず自分のトゥクトゥクに線香を1本たてる。また道路に仏教の祠があるとさい銭をあげて祈る。たぶん、どちらも安全祈願だろう。ぼくに5ルピーくれと言い、それをさい銭にしたが、人の金ではご利益はないのではないか。 ポロンナルワを8時に出発してコロンボに向かった。そして入院していた病院で再検査をしてもらい、むくんだ足にあうギプスを作り直してもらい、その後ニゴンボに行き滞在する予定である。しばらくするとP.S.J氏の携帯電話が鳴った。内容は彼が子どものときの学校の教師がきょうの朝6時に亡くなって2日後に葬式があるというものである。彼は葬式に出るらしい。いなかだから卒業後も何らかの付き合いとか交歓があったのかもしれない。その後さらに電話があり、葬式は明日の午後に早まったらしい。ぼくはハバラナの交差点で分かれてぼくは別のタクシーで帰ると提案したが上客を失うことになるので彼は自分で連れて行くという。 ぼくは小学校3年生のときから学校の教師は大嫌いで、徹底的に侮蔑している。日本の教育制度における教師は人間のくずだと思っている。もちろん教育制度が適切に働いて人間の文化や英知を継承していかなければ文明はほろんでしまうことは理解できるが、日本の教師をその担い手と認める気はさらさらない。それは今でもかわらない。特に小学校のときの担任は経過年数からいっても何人かは死んでいるだろうが、別に連絡はなかったし、仮に知らされても絶対に葬式には出ないだろう。ぼくが教師からいじめられたとかいうことはなかったが、生徒には勉強しろというくせに自分は生徒の質問にも答えられないとか間違った回答をするなど教師が勉強不足であるということ知っていて、ああいう連中をゆるすことは絶対にできない。だいたい小学生が知っていることを職業教師が知らないとはどういうことだ。小学生か中学生のとき夢でおまえはおとなになったとき教師か乞食にしかなれない、どちらを選ぶかというお告げのような内容であったが教師のような職業につくなら乞食の方がはるかにましだと夢の中で選択した記憶がある。おとなになって、一生涯「先生」ということばは使わないと決めた。そのため学校の教師に限らず士業とよばれる、設計士、税理士、弁護士に対しても先生とよんだことはない。単に相手の氏名にさん付けするだけだ。同級生で数人、また知人でも教師になった者はいるがどういう心境でなったのかまったくわからない。また小中高校なら教諭という用語が正しいがぼくが教師という言い方をするのはその方が語調がきついからである。さ行の「し」発音が単語末にきた方が、や行の「ゆ」より強く侮蔑的に聞こえるだろうという主観的気持ちからで、決して師だとはかけらも思っていない。中学校の卒業式で生徒会の役員などの有志が謝恩会なるものをしたときも、彼らは正気かと思い、途中退席したい気持ちが多かった。今年2013年、学校での体罰、運動系クラブでの虐待、校内いじめへの放任や加担、教育委員会の隠ぺいなどが発覚し問題となっているが、そういうものは氷山の一角で教師になる人間は元々そういうことがしたい、そういう連中だと思っている。自分より弱く対等に対峙できない児童、生徒に優越的立場で接したい、そういう人間が教師になるのだと確信している。以前にも大分県教委による不正採用があったし、数年に1度は教育界の不祥事が現れるが、そういう人間にとっての基本を欠如した人間が教師を志望しているからだと思う。だいたいなぜ大学を卒業して自分の人生これからというときに「次世代を育てる」という心理になるのか。自分がやっと社会に出て夢や希望をかなえて以降というときに、それが次世代のためとかで教師になるのか。何十年も生きてきて夢屋希望もある程度達成し、それでは次世代のためにとして教師になるから多少はわかる。しかし大学卒業してすぐ教師になるようなやからの考え方はわからない。なぜ子どもを相手にした職業を選択するのか、おとな同士の社会では自分が通用しないと認識しているから子ども相手なら優位な立場で押さえつけて生きていけるからだと考えて教師になったのだという小学生のころ持った考えは今も持っている。ただしこれらの認識が公平性を欠くことわかっているが、教師を絶対に許すことができない感情は生涯消えない。したがって教師の葬式に出るというP.S.J氏の心理が理解できない。
ハバラナで見た象、首にくさりをつけ、象使いと道路を歩いていた。 午後3時にコロンボの前回入院した病院に到着して、なぜギプスで足の甲をおおう部分をひっぺがしたか説明してもう1度つくってほしいと頼んだ。レントゲンを撮ってから、前回は手術室で全身麻酔でギプスを作ってくれたが今回はは手術室の前の廊下のストレッチャーの上でギプスを作ってくれた。かなり対応が悪くなった。ふくらはぎの部分は少し薄くしてほしいと要望したが、逆に今までより厚くて、後でズボンが脱げないことがわかった。そのため、ホテルについてから、はさみを借りてズボンのすそをかなり切り開くはめになった。普通なら例によって1泊は入院するところだが、ぼくもホテルに行きたいし、P.S.J氏もぼくを送ってから葬式のため故郷にもどらなければいけないので、ナースステーションでねばって交渉して午後6時に退院できた。P.S.J氏はコロンボの共同生活しているアパートに帰り、バスで故郷に向かい葬式に出るとぼくに告げた。
|