オーストリア・チェコ旅行  その6  

   その1   その2    その3   その4   その5   その6   その7   MAP

プラハ城

ヴルタヴァ川(モルダウ川)に架かるカレル橋を渡り坂をかなり上って行くとプラハ城にいける。正門の前がフラチャニ広場である。ここで2009年にアメリカのオバマ大統領が核兵器をなくすという演説をした。しかしアメリカという国は国民皆保険にも反対したり、銃規制にも反対したり、金持ち地域だけで独立して新しい自治体を作ったりと常識的に良い政策をしようとしても反対される国で軍縮も容易でなく核軍縮も 第1次戦略兵器削減条約START1が期限切れとなった後さらにおよそ700発追加削減する新モスクワ条約にやっとたどりついただけで終わってしまい。フラチャニ広場の演説も色あせたものになった。この広場の前に正門があり、プラハ城の入り口となっている。

プラハ城は遠くから見ると大きな尖塔のある建物がめだち、それが城なのか、日本流にいえば天守閣なのかと思うが、さにあらず一番高くで大きな建物はヴィート教会というキリスト教の教会である。 たたかうための城ではなく宮殿であり、王宮もある。一部は現在大統領官邸になっている。またプラハ城の麓には政府機関の入居する昔の建物がいろいろある。国会議事堂もなく上院、下院も別々の建物である。つまり日本のような高層建築に省庁がはいっているわけでない。 いつも不思議に思うのはなぜ日本の省庁や市役所はあんなにでかいのかということだ。

入り口には衛兵が左右の門柱に立っている。その衛兵交替式も見たが直立不動で立っているのもつらいものだ。中庭にはいりチケット売り場でチケットを買う。ヴィート教会の中は巨大でムハ、日本ではミュシャという画家というかイラストレーターというか最初はパリでサラ・ベルナールという女優のポスターを制作し有名になりチェコに戻 った画家がいるがヴィート教会の1つの区画のステンドグラスを制作したりした。そのステンドグラスには人だかりができていた。後でムハの美術館にも行った。

 

フラチャニ広場                                                プラハ城の中の巨大なヴィート教会とその尖塔

 

ヴィート教会正面 修理中である        ムハ(ミッシャ)が作成したステンドグラス

火薬塔という建物は軍事歴史博物館になっているが拷問室があり各種拷問道具がある。想像しただけでも戦慄する。ダリボルカという建物も拷問室があり拷問道具があった。また黄金小路という細長い建物はいろいろなみやげ物屋が入っているが2階は展示室で甲冑や武具が展示してある。現代のヨーロッパ人の男性の8割は太りすぎで、これら甲冑は小さすぎて装着できないだろう。

 

火薬塔の拷問椅子                                        黄金小路2階の甲冑

プラハ城を出てヴルタヴァ川(モルダウ川)を渡ると荘厳な建物がある。芸術家の家というもの、その向こうには美術工芸博物館があり見学した。この付近はユダヤ人地区で昔は相当数のユダヤ人が住んでいた。シナゴークが公開されているものだけで7つほどあり共通券で見学できるが撮影禁止である。シナゴーグに隣接したユダヤ人墓地はよさそうなので撮影した。かなり広い墓地は墓石が荒れるままに傾いていた。

 

芸術家の家                                                  ユダヤ人墓地

その他、ロレッタ教会にあるサンタ・カーサ(ややこしい、いわれがある)やストラホフ修道院、カロリヌム、エステート劇場、壁の中の聖マルティン教会、ベツレヘム礼拝堂など ガイドブックに載っているものはだいたい見た。ベツレヘム礼拝堂では夜コンサートがあるので鑑賞した。 他の教会でも弦楽四重奏コンサートを鑑賞したが、あちこちの教会が平日やたらコンサート会場になっている。曲は地元のスメタナなど、おのぼりさん観光客向けである。

 

ロレッタ教会のサンタ・カーサ                       ストラホフ修道院

ベツレヘム礼拝堂の近くにウ・ズラテーホ・ティグラという名のバーが15時から開店するが、ここは500mLのビールだけなのか、入店してビールというジョッキでビールが出てくる。飲み干すと自動でまた持ってきてくれる。また飲み干すと次のジョッキが出てくる。ことわらないかぎり次々とビールが出る便利な店である。あまり飲むとベツレヘム礼拝堂のコンサートに支障があるで適当に止めた。

 

ベツレヘム礼拝堂                                          ウ・ズラテーホ・ティグラ

最後の日にプラハ市博物館に行ったが、プラハは洪水の歴史の中にあることを知った。雪解けのころ、結氷した川の氷などが一部溶けて大量に押し寄せる。21世紀になっても何回か被害にあっている。

 

1784年のカレル橋に押し寄せる洪水の絵              2002年と2013年の洪水

ウィーンに戻るとき鉄道で行こうかバスにしようか迷った。バス代行運転の終点だったターボルでリンツ方向線路とウィーン方向線路に分かれるがウィーン方向も一部線路工事をしていたら、またバス代行だ。プラハ本駅で聞いてみたらウィーン方向は大丈夫だというが信用できない。結局バスで行くことにした。フローレンツというバスターミナルには早朝に着いて出発を待った。バスターミナルの手前では若い女性が金をくれと物乞いしていた。またターミナルのゴミ箱を1つ1つ物色している人もいた。バスの方が運賃も安くすんだ。プラハ近郊はガラガラにすいている片側4車線の高速道路を走った。 その後車線は減った。そうとうに走ったら片側2車線の一方を全面閉鎖して改修工事をしていた。つまり残り片側2車線を1車線ずつ使い双方向通行していたがそれでも渋滞なしだった。国境検問所の後らしい建物を横目にオーストリアにはいった。

バスはウィーン郊外に無事ついた。地下鉄の駅がすぐ近くにあり、それでまたウィーン西駅まで行ってメルクに向かった。今度はレイル・ジェットという特急ではなく快速電車だ。しかし2階建てのきれいな車輌で2階の席に座った。蛍光灯がフリッカーするチェコの車輌とは雲泥の差だ。

午後2時過ぎにメルクに着いてホテルで荷を降ろした。ホテルのレストランでビール休憩してメルク修道院に向かった。町を見下ろすように巨大な修道院が建っている。 

着くまで知らなんだが、メルクは西暦1014年にレオポルト1世の後を継いだバーンベルク家ハインリッヒ1世が、ウィーン近くで殉教したコロマンのまだ腐っていなかったと言われる遺体を修道院に運ばせたらしいが2014年の今年はその1000年記念の年である。そのため普段見ることができないメルクの十字架とコロマン顕示台を特別展示していた。これらお宝はどのようにしてできたのか不明だ。ハインリッヒ1世かその後継者が寄進したのか、信者から金を巻き上げて作ったのか、ぼくにはわからないが相当に高価な価値のあるもので修道院などという修行の場にはふさわしくないものだ。写真でははっきりわからないかもしれないが豪華絢爛の十字架と顕示台である。なお他にもお宝がいろいろ展示してあった。

コロマンという人物はアイルランド出の巡礼者で1012年不審な身なりや外国語を話したことからスパイの容疑をかけられ、拷問され、ニワトコの木につるされ絞首刑となった。その遺体が2年後の1014年になっても腐っていなかったというから奇跡だ奇跡だということだろう。 よくわからんが単なる巡礼者が殉教すると聖人に列せられるのだろうか。

 

町を睥睨するように立つ長く巨大なメルク修道院   メルクの十字架の裏側と表側 特別展示

 

特別展示のコロマン顕示台                                お宝の数々

 

コロマンの遺体を運ぶ絵のレプリカ                  床に1014年と2014年を書き込んである。

修道院内部は図書館や付属のペテロ・パウロ教会などもある。天井画がロットマイヤーによって描かれている。大広間もあるが出入り口のみ大理石であとの柱は大理石の模様が書いてあるだけだ。このように大理石の模様を描いて安く上げる建築は広くヨーロッパでは行なわれ、その技術でたとえば日本の熱海沖に浮かぶ初島にある初島クラブはエントランスホールを囲む柱はイタリアから来た女性を含む職人が描いていた。

 

大広間                ペテロ・パウロ教会 真ん中に十字架を持ったキリスト、両脇にペテロとパウロがいる。

メルクの小さな町並を見て、メルクに泊まり翌日はドナウ川の川くだりとなる。

 

   その1   その2    その3   その4   その5   その6   その7   MAP

 

 

Copyright © 1998-2014 マァート・ハイシステム有限会社 All Rights Reserved    このWebにのせられた文章、用語説明、写真、イメージ、事実の記載、テキストその他すべてのオブジェクトの無断使用をいかなる場合も全面厳禁します。