オーストリア・チェコ旅行  その5 

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プラハ

ザルツブルクからリンツまで来てそこからチェコのプラハに向かう路線の列車に乗り換えた。 するととたんにスピードが落ちて徐行運転のようになったしかも各駅停車である。国境を越えるころ車掌がパスポートと乗車券を確認して「チェスケー・ブジェヨヴィツェでなんたらかんたら 」という。内容はよくわからんが、いよいよその駅に近づいてくると英語での車内アナウンスもあり、ここで列車は終点だという。切符はプラハまで買ってあるのにどういうことだと思っているとターボルという都市までバスで代行運転するという。事故だろうか。これは到着が大幅に遅れるなと怒りが沸いてきた。切符を買うときも乗り換えてからもそういう 説明はなかった。

ちなみにバスに乗り換えたこのチェスケー・ブジェヨヴィツェは、あるビールの発祥地である。そのビールはバドワイザーである。アメリカのビール会社がこの地の有名かつ高品質のビールに、この地のビール名をつけたのである。たぶんかってにつけたのであろう。もちろんアメリカのバドワイザー会社の方が抜け目ないからアメリカおよび世界各国でバドワイザーという商標登録はしてしまっていることだろう。しかしチェコでバドワイザーといえばチェスケー・ブジェヨヴィツェのビールのことでレストランでもそれで通る。

チェスケー・ブジェヨヴィツェ駅正面玄関

また乗り換えのために駅から出たが、駅舎正面に落書きがあるは、玄関ひさしはボロボロだは、と旧社会主義はやはりこんなものかと実感した。バス代行も後でわかったが事故ではなく、老朽化したレールを、ここからターボルまでの60キロのかなり広範な区間で取り替えてさらに一部は複線化していた。ターボルから再び乗った列車はかなりボロくて、こんな老朽列車は発展途上国クラスである。 なおバス代行運転は道がガラガラなので60キロを60分で渋滞なく走り抜けた。

またチェスケー・ブジェヨヴィツェのチェスケーとはチェコの、という意味である。この駅から分岐して世界遺産のチェスキー・クルムロフの町のチェスキーも同様。日本でいえば「日本の京都市」とか「日本の名古屋市」といっているようなもの。このような都市名は地図で調べると20箇所ぐらいある。チェスケー・ブジェヨヴィツェはいわゆるズデーテン地方でナチス・ドイツに占領されたことがあるから、わざわざチェコであることを強調しているのかも知れない。 あるいはスロバキアに同名都市があるのかもしれない。

 

たとえばオーストリアの列車では上の写真のように自転車も持ち込めて自転車を立てに引っ掛ける自転車置き場があるがチェコの列車は車内の照明でさえ蛍光灯が フリッカー状態のままのありさまである。

 

プラハ本駅コンコース 社会主義ではなくなったのに柱も天井も真っ赤    駅前広場にある広告塔、一番上が共産主義博物館の広告

 

共産主義博物館入り口にも同様のポスターがある。牙をむいたマトリョーシカ人形、ソ連の恐怖を象徴している

                                      共産主義博物館はこの建物の2階にあり、2階の向かい側はカジノである

プラハについてからは歩いてホテルまで行った。ホテルは安いところでドミトリーである。4泊で8000円以下だった。1部屋に2段ベッドが5つあり合計10人それが2部屋続きで合計20人それについての設備は3つのトイレ、2つのシャワールーム。別の階ではキッチンのある部屋もあるようだ。 今回の旅行での最安、最悪のホテルであった。なぜならプラハではビールの飲みすぎで腹をこわしていた。トイレは欠かすことができない。しかしこのドミトリーでは20人が使うトイレのトイレットペーパーが補給していない。他のホテルでは毎日清掃して補充を欠かさないのにここは20人部屋なら清掃の手間も少なく、いくら宿泊費が安くても十分メンテナンスの余裕があるはずだがしない。レセプションに行って厳重に抗議したら、一応対応した。

 

改装中で、はいれない国立博物館                     ヴァーツラフ広場 ここからカレル橋までが一番の繁華街

ホテルに向かい、歩く途中で非常に威厳のある建物に出っくわした。改装中で、見学はできない国立博物館でここから北西に伸びるのがヴァーツラフ広場だ。広場というより名古屋の100メートル道路のように幅の広く長い道路である。1968年のプラハの春のときソ連軍 をはじめとするワルシャワ条約軍の戦車がここにひしめいたという。いわゆる制限主権論という得意のご都合主義の 屁理屈である。

 

ピヴォヴァルスキー・ドゥームという名のバー&レストラン  自家醸造ビールのタンクが店舗内にある。

ピヴォヴァルスキー・ドゥームというガイドブックに載っていたレストランがホテルのすぐ近くにあったので若干はやめの夕食した。ここでは8種類の小瓶のビールセットがあると書いてあったのでそれを注文した。しかしわけのわからんビールで飲みなれない味でまずかった。普通のビールにすればよかったと後悔したが、1度は飲んでみないとそういうこともわからない。

なにしろチェコは世界のビールでもっとも普及しているピルスナー型ビールの発祥の国だ。いろいろ飲んでみた。実際ピルスナー・ウルクルという銘柄があり、たぶん元祖であろう。

プラハの町は地下鉄こそ3路線しかないが路面電車がかなり整備されていて、しかも本数がすこぶる多いので非常に便利である。ただし切符売り場がはっきりしない、売店や雑貨店で売っているのでまとめて5枚ぐらい買う。フリーカードみたいなものはなく、あっても路面電車などだけにそんなに乗らないのでメリットがない。したがって1回券を複数枚買うことになる。ガイドブックによれば、もし乗車券なしで乗り、検札にひっかかったら無条件に罰金となるから、売り場がわからなかったなどという弁明は通用しないだろうからである。

 

通称ダンシングビルと呼ばれるビル 柱が歩道の外まで出ている。これでよく建築許可が出たものだ

                                                                                          改装中の国民劇場

有名なカレル橋に行ってみた。大勢の人がおり、似顔絵描きなどいろいろな物売りがいた。一番びっくりしたのは喜捨を求める人である。彼らは微動だにしない。しかし彼らは宗教関係者や物乞いではな いかんじがする。バックパッカーの旅行者同士が愛嬌でいくらお金が集まるか競争ないしは賭けをしているのではないかと思う。

カレル橋には両側に40体の像があるがヤン・ネポムツキー像の台座は人々が御利益を得るのに、手でなぜるため金色に光っている。

フランシスコ・ザビエルの像もあるが40体の中でザビエルだけが人を踏みつけている。踏みつけられている人のひとりは弁髪の男で清朝時代の中国人だろう。なんでも、かみつ く中国政府がよくだまっているものだ。

 

カレル橋入り口にある旧市民塔                    カレル橋で演奏する人たち

 

にがお絵を描く人                                     ヤン・ネポムツキー像の台座をなでて御利益を願う人たち

 

キリスト教徒は、なでるのだろう                          喜捨を求める人

 

喜捨を求める人  どちらも帽子の中はからっぽ。お金はすぐにポケットに移すのか、だれも相手にしないのか。

                                                            人を踏みつけるイエズス会の象徴フランシスコ・ザビエルの像

ぼくはローマン・カトリックはもっとも嫌いな宗教であるがそのなかでもイエズス会は最悪である。贖宥状(免罪符)を売りさばきザルツブルクの大司教のように悪事のかぎりを尽くしていたローマン・カトリックの聖職者に対して宗教改革が始まったがその時期にイエズス会はローマン・カトリックを守るためにローマ教皇の忠実なしもべ、番犬としてイグナチオ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルの2人のバスク人とその他5人で設立した。 バスクの恥だ。対抗宗教改革(反宗教改革)の旗手として教皇やその後ポルトガル王に取り入り資金を得た。そしてポルトガル海上帝国の植民地主義の尖兵として世界に繰り出し、ザビエルは日本にまで出没した。 その後フロイスなどを送り込んだがポルトガルの艦隊を派遣させると本音をはいたコエーリョがいて秀吉を警戒させた。その後コエーリョは日本で死んだ。秀吉がバテレン追放をしなかったらポルトガルの植民地になり、日本の公用語はポルトガル語になっていたかもしれない。だいたい信長は腐りきった比叡山延暦寺の僧や僧兵を処分したが秀吉が処刑した宣教師はたったの6人だ。しかもフランシスコ会の宣教師だ。ただちに日本居留の宣教師を追放ではなく全員死刑処分にすべきだったと思う。

なおローマン・カトリックは現代でも幼児性的虐待やバチカン銀行のマネーロンダリングなどの悪事を続けている。

オーストリアとチェコのイエズス会についていえば1551年 フェルディナント、ハプスブルク帝国の事実上の創始者の招きでイエズス会がウィーンに進出
1556年 同じくフェルディナント、イエズス会をプラハにも進出させる。カレル橋東側に広大な土地を与えクレメンティヌムというものを作らせた。現在もクレメンティヌムはあるがイエズス会は 追放されていない。
1773年 マリア・テレジアによりウィーンのイエズス会解散命令。資料はないがプラハもオーストリア・ハンガリー帝国の一部だからプラハからも追放されたのだろう。現在は宿泊したホテルの近くにイグナチオ教会がある。これもかなり広大な土地である。いつ舞い戻ってきたかは不明だ。イグナチオ教会はイグナチオ・ロヨラが聖人になっているのでつけられた名だろう。 日本の上智大学の隣にもある。設立時正式の会の憲法ともいうべき会憲を作成するのに1541年から1550年までかかり最初の草案を作ったがドミニコ会などの参考があるのにこれだけの時間かからないと作れないという徹底的な無能低脳ぶりをよく表している。

現代では教皇(法王)までイエズス会士がなっている。なんてことだろう。

国際的ネットワークがあるから世界各国から金を集め戦後の混乱期に旧江戸城外堀内の土地を買い上智大学を作った。隣の真田堀を東京都が戦後のガレキ処理地として埋め立てたところをグラウンドとして借りて使用している。戦後69年も立つのだからガレキを掘り返して外堀にもどし東京都に返却すべきだと思う。科学や人智とは対極にあるカトリック教義の団体が上智とはあきれる。

   

イグナチオ教会正面                        正面からはるかにつづく建物                        日曜日のミサ

イエズス会はメキシコなどでも追放されているがその理由は知らない。一応植民地主義の非人道性に反対したからかもしれない。しかし、かつては援助も受けたポルトガルで追放、教会財産没収された原因はわかっている。東日本大震災のような震災がポルトガルで発生した際、イエズス会は神のみこころであるとのたまわったからだ。もちろんそれ以前から教会財産をふやし権力の拡大をはかってきたことも背景にある。なんの落ち度もない国民が大勢死んだ未曾有の大災害に対して当然だという態度を流布するなら政府の怒りをかうだろう。

 

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